老いるということ
別に振り返るということではなく、今まで自分なりに読んできた書物のあれこれが脳中を去来し、何かを書こうと思えばそれらの再来到来に直面する。
で、自分なりにこれまでの読書を整理というか思考を再構成しておこうと書いたのが、『読む、時代を?』補遺、であった。
体調不良もあってちっとも丁寧でないし荒削り過ぎてメモの域を出ないけれども、見通しは示すことができたかも知れない。
またペダンチックだと言われるかも知れないな。
https://note.com/rliang/n/n716732fee554
『読む、時代を?』補遺
先にアップしている黄英治『こわい、こわい』と原佑介『禁じられた郷愁』の交差的読解、の補遺を書きました。noteにアップしてあります。
斎藤環の文章で気になっていたこと
「人間は、去勢されることで、つまりペニスの代わりにファルスを獲得することによって、この象徴界に参入する。(中略)女性に哲学者がいないっていうのも、どうやらこのあたりに関係がありそうな気がする。
(中略)僕が考えるに、哲学者っていうのは、まずなによりも言葉をいちばん厳密に扱う人のことだ。厳密、と言ったって、なにも語源がどうの、文法がどうの、という話じゃない。言い換えるなら、言葉だけで世界を再構築できるかを厳密に問いかける人のことだ。
https://www.cokes.jp/pf/shobun/h-old/rakan/14.html
うーむ、そうなのかな。この一節はずーっと気になっていた。
「性というのは、ラカンによれば、象徴的にしか決定されない」と述べながら斎藤は「女性」を実体的に語ってはいないか。それに「女性に哲学者がいない」てのも暴言のような気がする。
哲学者の定義、哲学者とは、「言葉だけで世界を再構築できるかを厳密に問いかける人のことだ」そうだけど、具体的には誰が当てはまるのだろう。「言葉だけで世界を再構築」かぁ。
しかし今時、「言葉だけで世界を再構築」することを考えている人なんているんだろうか。そんなことを「厳密に問いかける人」なんているんだろうか。
というのも哲学とはそういうものかという疑問もあるけど、何よりもここで斎藤はファルスの獲得で象徴界=言葉の世界に参入するとラカンの考えを敷衍し、言葉の世界がファルス中心主義であるのだから、その世界が「男性」的なものであり、男性中心主義に陥るのは当然なのだから、「女性」に「言葉だけで世界を再構築できるかを厳密に問いかける」のが女性に不向きだというのは、殆ど同語反復トートロジーではないのか。
いや斎藤は言葉の世界が男性中心主義だというラカンの思考(独断?)の一例として、或いはその説の補強として、女性哲学者の不可能性をあげているとも読める。
だから気になっていたのは象徴界のファルス中心主義、言葉の世界のその男根中心主義なんだろうと思われる。フロイトのペニス中心主義にしろ、象徴化したにしろラカンのファルス中心主義という、男性中心主義的な思考にミソジニーを読むのはさほど間違いではないだろう。フロイトにしろラカンにろ精神分析の思考を読むのに注意しなくてはならないのがこの男性中心主義であるのは竹村和子の指摘する通りであるだろう。
#ラカン
#生き延びるためのラカン
#斎藤環
#女性
#象徴界
「人間は、去勢されることで、つまりペニスの代わりにファルスを獲得することによって、この象徴界に参入する。(中略)女性に哲学者がいないっていうのも、どうやらこのあたりに関係がありそうな気がする。
(中略)僕が考えるに、哲学者っていうのは、まずなによりも言葉をいちばん厳密に扱う人のことだ。厳密、と言ったって、なにも語源がどうの、文法がどうの、という話じゃない。言い換えるなら、言葉だけで世界を再構築できるかを厳密に問いかける人のことだ。
https://www.cokes.jp/pf/shobun/h-old/rakan/14.html
うーむ、そうなのかな。この一節はずーっと気になっていた。
「性というのは、ラカンによれば、象徴的にしか決定されない」と述べながら斎藤は「女性」を実体的に語ってはいないか。それに「女性に哲学者がいない」てのも暴言のような気がする。
哲学者の定義、哲学者とは、「言葉だけで世界を再構築できるかを厳密に問いかける人のことだ」そうだけど、具体的には誰が当てはまるのだろう。「言葉だけで世界を再構築」かぁ。
しかし今時、「言葉だけで世界を再構築」することを考えている人なんているんだろうか。そんなことを「厳密に問いかける人」なんているんだろうか。
というのも哲学とはそういうものかという疑問もあるけど、何よりもここで斎藤はファルスの獲得で象徴界=言葉の世界に参入するとラカンの考えを敷衍し、言葉の世界がファルス中心主義であるのだから、その世界が「男性」的なものであり、男性中心主義に陥るのは当然なのだから、「女性」に「言葉だけで世界を再構築できるかを厳密に問いかける」のが女性に不向きだというのは、殆ど同語反復トートロジーではないのか。
いや斎藤は言葉の世界が男性中心主義だというラカンの思考(独断?)の一例として、或いはその説の補強として、女性哲学者の不可能性をあげているとも読める。
だから気になっていたのは象徴界のファルス中心主義、言葉の世界のその男根中心主義なんだろうと思われる。フロイトのペニス中心主義にしろ、象徴化したにしろラカンのファルス中心主義という、男性中心主義的な思考にミソジニーを読むのはさほど間違いではないだろう。フロイトにしろラカンにろ精神分析の思考を読むのに注意しなくてはならないのがこの男性中心主義であるのは竹村和子の指摘する通りであるだろう。
#ラカン
#生き延びるためのラカン
#斎藤環
#女性
#象徴界
宣言下の五輪
信じられない、未だに。
コロナがこれだけ蔓延し、毎日死者も出て、累計15,000人に垂んとするのに、大規模運動会だなんて。
凄い人の流れ、そのためにコロナが更に蔓延。
ワクチンはどうなってるのか、詳しい情報を政府は流さないから、しかとは分からないけれども、5,735万回でしかなく、人口の半分にも満たない。河野太郎の嘘も酷いし。
IOCのバッハ毎日一泊300万のスイートで優雅に、税金を使ってくれています。
居酒屋は禁酒でアップアップ。もはや政府の要請に従わない居酒屋が数多く出ているよう。
そりゃ、飲みに行って応援したくなります。補償が不十分なんだから。
一律給付金、欲しいですね。毎月50万くらい。だって去年の10万ぽっきりなんだから。
日本の崩壊、小泉・安倍によって底が抜けてしまいましたね。電通平蔵吉本によって税金ダダ漏れ。
司法とメディアも官僚も終わってから、日本もそろそろ終わりに向かってるのかも。
この最中に五輪に出場するアスリートも全員を軽蔑したくなります、組織委は勿論だけど。
一切五輪は見ない。スポンサーの新聞は取ってないし、テレビもない。コカコーラやアサヒビールなどスポンサー商品はボイコット。
かすかな抵抗だけど、怒りがおさまらないから、仕方ありません。
unlearn
インド系の文学者歴史学者哲学者ガヤトリ・スピヴァクの言ったunlearnとは、学び直すと訳せるけれども、学校教育はいわば必要悪のようなもので、その目的は産業社会にふさわしい人間の製造にある。
ゆえにその教育を受けた者が産業社会の価値観や社会体制を批判しようとするなら、それまで受けた教育を、批判的に活用するために学び直さなければならない。unlearnするのだ。
それまで受けた教育を学び直すとは、今ある自己を改造すること、変身することでもある。今ある自己は徹底して産業社会にふさわしい自己として形成されているから、そのような自己の変身こそ哲学や文学や歴史を介してなされることになる。
いや歴史や文学や哲学が自己の変身、そして社会の変革に寄与しないなら、それらはそもそも何のためにあるのか? 自己が変身しないなら、そもそも何ために学ぶのか。何のために書を読むのか?
いかに自己を変えるか、所与の思考法とは別の仕方で思考すること。学校教育で訓練された思考法を批判的に使用するべく新たな思考法を見出すないし作り出さなければならない。
今ある自己に充足しないこと、ナルシシズムから遠く離れること。
unlearnは単なる自己の内なる知の組み替えではなく、自己の存在の仕方そのものの改変を意味するのだろう。