② 韓日米のフェミニズム

『風の丘を越えて 西便制』1993という映画があった。これは韓国ばかりか日本でも大ヒット。

それまで時代遅れの芸能とばかり見られていたパンソリがこれを契機に復活し、「テチャングム チャングムの誓い」の冒頭の音楽にも用いられたのは周知のことだ。

で、話しの都合上、見ていない方は上記のYouTubeで全編が見られるので、ぜひ。


“Im Kwon-Taek the making of a Korean National Cinema”2002(『林權澤 韓国民族映画の創造』)に収録された Chungmoo Choiの“The Politics of Gender, Aestheticism and Cultural Nationalism in Sopyonje ant The Genealogy”(「『西便制』と『族譜』におけるジェンダー政治学、審美主義及び文化ナショナリズム」)は飛びぬけて素晴らしい『西便制』論を展開している。

映画の終わりの方で、義理の息子トンホが去り、ユボンとソンファが二人で村はずれの一軒家で暮らすシーンについて(以下は拙訳。映画の詳細は周知のことだと推測されるので割愛する)、

「すなわちこのシーンはユボンがソンファの視力を奪うために注ぎ込んだ毒が次第に効果を発揮しているのだ。ソンファの盲目を確認したあとで、彼は自分の目的をソンファに告げる。二人が互いに腕を組んで遠ざかるシーン、盲目のソンファはくるぶしをあらわにした質素な黒のスカート、白いブラウスの上に明るい色のセーター、そして首にまいたウールのスカーフの上に編んだ髪が垂れている。続く二つのシーンでは、彼女は上まで編み上げた髪にとてもゆったりしたチョゴリという伝統的な既婚女性の身なりなのだ。

これらの視覚的イマージュはプレ植民地時代の朝鮮の妓生(キーセン)文化を思い起こさせる。その時代、若い娼妓が男性のパトロンによって処女を奪われた時、髪を束髪で結い上げ男根を思わせる簪(かんざし)で固定する。この儀式は婉曲的に“髪上げ”と呼ばれている。これはパトロンが娼妓を自分の愛人としたことを意味する。この言い回しは決して一般女性には適用されない。にもかかわらずソンファのお下げから束髪への髪型の変化は彼女の地位の変化を指示している。明るいブライダルカラーと対照的な濃い色調の衣服はまた妓生を連想させてしまうのだ。p108」

Choiはユボンがソンファをレイプしたという疑似的近親姦(ソンファは養女である)の物語として読んでいるのだ。

小林勝の中編小説〈フォード・一九二七年』の一節、頭髪をたばね、銀色の朝鮮のかんざしを一本さしこんだ女」であるスンギーと、『西便制』のソンファが重なる。「若い娼妓が男性のパトロンによって処女を奪われた時、髪を束髪で結い上げ男根を思わせる簪(かんざし)で固定する」というChoiの指摘に従うなら、スンギーという女性の〈現在〉が、「プレ植民地時代の朝鮮の妓生(キーセン)文化を思い起こさせる」点で極めて異なった様相を呈して来るだろう。

「フォード・一九二七年」は植民地時代の話だからスンギーが「妓生」であるはずはないとしても、「男根を思わせる簪で」髪を束ねているという表象、女性(の髪)を貫く簪(ペニス)という形象はまさに性交そのもののメタファーとして、スンギーが性的な兆候を強く暗示する女性として浮かび上がって来るのだ。

とはいえ「彼女の胸」が「驚くほど薄くなってい」という目撃証言はスンギーという女性に関する残酷なテクストの語りであるとも言えはしないだろうか。まだ二十歳代であろうスンギーが性的に強烈な表徴(簪に貫かれた髪)のもとで語られつつ、その一方で性的な魅力を喪失(性的シンボルとしての乳房の稀薄化)している女性であるというのはあまりにも酷薄な事態だとも言えよう。

それにしてもスンギーに触れるたびにその「胸」のふくらみに目を向ける「ぼく」の視線はテクストの語りの大きな指標であるだろう。女性の形象化に際して「豊かにもり上がっている胸」とか「彼女の胸は驚くほど薄くなっていた」と〈胸=乳房〉という身体の一部に固着する(フェティッシュ)かのようなステレオタイプ化された表象形式を用いるのは、朝鮮の植民地化と〈女性の植民地化〉との間に連続性があるのか否かという疑問が湧き上がるのを否めない。これはフェティッシュな欲望の表象なのだろうか。テクストはさまざまなセクシュアリティの徴候を示しつつもそれ以上は見ない

ついでながら、上の引用に続いて、「以上のことは、ユボンが無防備な養女を盲目にした上にレイプし情婦にしたということを作品が暗示しているのだ」と語るChoiの論文は「植民地化されたコリアン男性が、植民地化された同朋女性や去勢された自身に暴力を加えることで、そのナショナルアイデンティティと男らしさを奪われたことに応えようとするそのやり方について論じ」るのだと、挑発的な言葉を綴っている。

Choiの映画の細部にこだわり興味深い論を練り上げていくその批評はまさにフェミニスト読解の手本のようなものである。だが、その観客たち(ことにマチズモを内面化しているナショナリストたち)の神経を逆なでするような論調であることは否めない。

ちなみにKyung Hyun Kimが“The Remasculinization of Korean Cinema”でChoiの読解を批判的に取り上げているp60-66。ChoiとKimの関連する箇所の日本語訳は「Liangのブログ」を参照。https://blog.hatena.ne.jp/gsnjsfpct136/gsnjsfpct136.hatenablog.com/Kimは私たちのメールに答えて日本語訳をブログにアップすることを許可してくれたけれども、Choiからは返答がなかった。

なるほど映画『西便制』が美しい国土、素晴らしい音楽(パンソリ)を織り込み、「民族の自尊心を呼び起こ」すものであったのは、その観客数やパンソリのリバイバル(ドラマ『宮廷女官チャングムの誓い』の主題歌「オナラ」がパンソリを採用していた)を見てもよく分かるとはいえ、「植民地化された男性」、「男らしさを奪われた」男性の「ナショナルアイデンティティ」の回復(ここだけを見て多くの観客は感動したのだろうか)の〈失敗〉を、女性に対して暴力を振るうことで抑圧支配を成し遂げている点を見ないことであり、ここにも見えるものと見ないものとの錯綜した関係が見て取れる。

以上、Choi(漢字表記すると崔だ)の文章は拙論『読む、時代を?』からの引用に少し手を加えたもの。

疑問に思うのは、映画「西便制」の監督林権沢に関する論文集がなぜ日本語に訳されていないか、である。Choiの論文のような卓越した評論が含まれているのに。

同じように訳されて然るべき書として『Dangerous Women』がある。


長くなったので、この書についてはまた後日。おやすみなさい💤😴