④ 韓日米のフェミニズム

かつて、友人でもある在日の作家が「同胞は批判しない」と発言して大きな驚きを感じた。

気質としてこういうネポティズムというか身内贔屓というかが大嫌いな者としては理解不可能な発言だった。耳障りの好い言葉だけを聞いていて楽しいのだろうか。批判こそ変変身への契機であろうに惜しいことではないか。

でもおかげでなぜこちらが嫌われるのかも分かった。金石範や尹健次、それに竹田青嗣といった在日の大御所を遠慮なく批判するからであろう。しかし批判は非難でも悪口でもなく、ただ問題点を指摘しているばかり。


『読む、時代を』で黄英治と原佑介、方や勝手な切り取りをするなと叱られ、方や梨の礫、うーん。


もう一つ嫌われる理由と推測されるのは思考の仕方かな。

精神分析フロイト、クライン、ラカンなど)、

ポスト構造主義哲学(フーコーデリダドゥルーズなど)、

フェミニズム(フックス、バトラー、スピヴァクなど)

の三つ巴、用語の使用を含めて慣れない読者は何が書かれているのか、煙に巻かれるように感じるのだろうか。

例えば「民族」や「日本語」「日本文化」を相対化し、さらには「家族の絆」まで批判したりするなら、そりゃ敬遠されますよね。😅


韓国の学者に朴裕河(パク ユハ)というのがいて、かつての意味での親日派的な発言をすることで有名なんだけど、さまざまな批判を受けているなか、『和解のために』『帝国の慰安婦』とも、「日本」の右翼が喜びそうなことがちらほら、いや至る所に記している。関心のある方は日本語版のWikipediaをご覧あれ。その一端を以下に、

まず『和解のために』への批判

「金富子は、「あまりにも国家中心・男性中心。植民地主義への批判が欠落し、被害と加害を同列化している。」との批判した。女性史研究家鈴木裕子も、「朴裕河現象」として否定的に評価した。」

次に『帝国の慰安婦』への批判

歴史学者の鄭栄桓は、著書について、「証言や資料のつぎはぎと、そのつぎはぎされた資料群からすらも導きだせない根拠なき解釈――しかも元「慰安婦」たちが日本軍に「同志意識」を持っていたという重大な解釈――を展開」していると評している。

法学者の前田朗は、「「慰安婦」強制の直接実行者が主に民間業者であったことは、当たり前の認識であり正しい。ならば民間業者の責任を問う必要があるが、著者はそうしない。民間業者を持ち出すのはひとえに日本政府の責任を解除するためだからである」、「植民地支配の責任を問うべきであるが、著者はそうしない。植民地に協力した<愛国的>努力を勧奨するからである」と評している。

とまあ、あげればキリがないほど。

そしてこの朴裕河を推すのが上野千鶴子
その上野を批判するのが大越愛子。

大越は凄いフェミニストなんだけど、2021年3月に惜しまれつつ世を去った、享年74歳。

「日本の文化の中に構造化されている女性蔑視体制を反映している」のが「慰安婦」とい う表象であり、「強姦を和姦にすり替え」ており、「慰安」の語が「男性が女性を強姦するんだけれども」「男性の弱さが女性の肉体、身体での慰安を要求して、それに包み込まれることで、ようやく男性が救われるという 物語にすり替えられ」ていて、それこそが「日本仏教の性的救済の構図」だと指摘するこの論文は(現代思想 一九 九七年九月号vol.25-10「ジエンダーと戦争責任」) 優れた「慰安婦」批判であり、またその著作『フェミニズム入門』は特に優れたフェミニズムの概説書となっている。

上野千鶴子が自他ともに認めるフェミニズムのパイオニアであるのは贅言を費やすまでもないとして、その彼女が朴裕河を擁護するような変節はいかにも納得が行きそうにない事態だろう。だが、大越愛子は徹底して上野を批判する。

例えば『フェミニズムと国家暴』p227  からつぎに見てみよう。(鶴見は鶴見俊輔、鈴木は鈴木裕子。国民基金アジア女性基金とは「元「慰安婦」に対する補償(償い事業)、および女性の名誉と尊厳に関わる今日的な問題の解決を目的として1995年7月に設立された財団法人。日本国政府からの出資金と、国内外からの募金によって運営された。」 Wikiからの引用。

要は民間から金を集めて、国家としては何の謝罪も責任を取らないものである。以下は大越の文章。

鶴見をはじめとする「国民基金」側の国家責任回避の態度の陰に、天皇免責の論理の継続を見出した女性たちは、「国民基金」を厳しく批判し、抗議集会を開くなど果敢な実践活動を展開した。この中心にいた鈴木の論点を「歴史の真空地帯に足場を置くような超越的な判断基準と定義づけ、彼女の議論の無力化を図ったのが上野千鶴子である。八〇年代にフェミニズムの旗手としてまてはやされた上野だが、「慰安婦」問題に関しては、不可解な言動な終始している。彼女は被害女性たちの当事者としてな証言にまともに向かい合うことなく、むしろ被害女性たちの個別カテゴリー化に熱心であり、構造的暴力の問題には無関心である。p227

引用終わり。

つぎはまた雑誌「現代思想」の、1997/vol.25-10からの引用。


日本女性の戦争への加害責任というのを非常に真摯に追及している彼女(鈴木裕子)の歴史観を、上野千鶴子さんなんかは「反省史観」と決めつけているわけですね。私は問いたいんですが、反省史観という決めつけと自虐史観とはどう違うのでしょう。最近はエスカレートして、フェミニズムによる性意識のパラダイム転換を評価しない古典的女性史家という決めつけ方になっている。これは完全な認識不足ですね。p148

以上。


いやぁ、上野の変節はひどいですね。「晩節を汚す」なんて語を想起。

ユン コンチャは日本のフェミニズム運動は大したことがないと批判してたけど、松井やより鈴木裕子、大越愛子、藤目ゆき、井桁碧とあげるだけでも、錚々たる人々でその業績には目覚ましいものがあるのではないだろうか。

最後に金富子(きむ ぷじゃ)の見事な上野千鶴子批判をあげておく。

https://chuo-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=9203&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1