① 韓日米のフェミニズム

『82年生まれ、キム・ジヨン』の大ヒットを見ても分かるように、また慰安婦への活動を見ても、韓国のフェミニズムは活発であった。ことに文在寅前大統領がフェミニズムの理解者であったこともあり、「女性家族省」の創生もあった。

ところが新大統領ユン ソンニョルは選挙運動の後半で「女性家族省」の廃止など「行き過ぎたフェミニズム」を掲げ、徴兵世代の若者の票を集めた。確かに韓国には男子の徴兵制があるがゆえにいっそう女性の社会進出には反感を持つ者も多いのだろう。

2000年に開催された「女性国際戦犯法廷」は画期的なものだった。韓国日本中国フィリピンなどの女性たちが連帯して開いたものだった。そしてVAWW-NET Japan編『女性国際戦犯法廷の全記録 (シリーズ:日本軍性奴隷制を裁く―2000年女性国際戦犯法廷の記録)』(2002年5月、緑風出版)は全6巻の素晴らしい業績である。フェミニストひ国境はない。

この裁判の記録をNHKが報道しようとした時、副官房長官安倍晋三や経産大臣中川昭一が介入して番組の一部を差し替え改変させるという出来事があった。『暴かれた真実 NHK番組改ざん事件 ―女性国際戦犯法廷と政治介入―』

この裁判ではハッキリとヒロヒトの有罪が宣告されている。かつてサルトルラッセルととまに米国のベトナム侵略を裁く国際法廷を開いたが、それに準じるものであり、東京裁判のやり直しでもあった。

しかしこれらの裁判は法的拘束力のないものであり、日本政府はもちろん召喚されても参加しなかったし、メディアもほとんど報道しなかった。

ただこれを契機フェミニストたちが国境を越えるような連帯を構築したことが大きな収穫の一つだと言えるだろう。

少し話しは変わるようだけど、アメリカのドラマが白人男性中心主義があまりに激しいのと、社会性の徐々の喪失からさほど魅力を感じなくなり(ドラマ「ワイヤー」や「ローアンドオーダー」などは面白かったが)、韓国ドラマにハマっている。

ただ韓国ドラマの翻訳について一言。男性が年下の女性に向かって「お前」と呼びかけたり、オフィシャルな場面なのに「俺」と言ったりするのには違和感がある。訳者の見識が問われるのではないか。女性に向かってはせめて「きみ」か「あなた」を用いるべきだし、よほどプライベートな環境以外では男性の一人称は「私」であろう。

「僕」というのは男性のマーキングのある語で、かつて『僕はかぐや姫』という小説があったけど、これはジェンダーの錯乱を意図した命名。いい大人が「僕」なんて使う男性は気持ち悪いというようなことを、かつて富岡多恵子が書いていた。細見和之がずっとその著作で「僕」を用いていて読むたびに気持ち違和感を感じていたものの、50を済んだあたりからようやく「私」を使用するようになったみたい。

日本社会でも内藤剛志沢口靖子に「お前」と呼びかけるのには辟易。

「お前」は、「お前呼ばわりする」という表現があるように相手を蔑んだ呼称であり、そういう呼び方を避けるのが社会常識であった。

また吉本興業の芸人の影響だと言われている女性のパートナーの「嫁」呼ばわり。「うちの嫁が」なんて発言する男性は、民法では「嫁」の存在しないことを知らないのだろう。家制度がない以上「家に嫁ぐ嫁」もいないはず。

英語に性別を問わない「きょうだい」を表すsiblingかあるけど、日本語にはないから男の兄弟を表す「きょうだい」が性別を問わない兄弟姉妹の意で用いられる。(男性優位と言えば言えよう)

女性ばかりの看護婦の中に男性が入って来て「看護士」という表現も使われたけど「士」はサムライ、明らかに男性を指示する漢字だから、中性の「看護師」に落ち着いた。とするなら弁護士は未だに男性の職業なのか。弁護士も「弁護師」となる日を期待する。

慰安婦たちのハルモニ」という表現にも違和感があったりする。オモニ、ハルモニは母と祖母を表すが、ハルモニは同時にお婆さんという女性のお年寄りの呼びかけにも使用される。オモニやハルモニは子どものいる女性のことだが、慰安婦たちで子どものいる方は少ない。むしろ「母」となることを阻害された女性たち、それなのに孫がいることをコノートする「ハルモニ」と呼ぶのは残酷ではないとは言えまい。しかしハングルには中性のお年寄り、あるいは子どもや孫のない女性や男性を言い当てる語がないから仕方ないとも言えよう。

こういう記述をしてゆくと単なる言葉狩りだと指弾されるかも知れない。とは言え、まさにこれらのことがフランスを初めとして「包括書法」として何年も前から物議を醸している。

例えばあの人は学生だ、と性別を問わずに発話する際、she もheも使わずに、
They is a student.
と表記する。凄いよね、三人称複数形theyが中性単数として用いられることが公に認められているのだ。

ことほどさようにジェンダー平等のために言葉が問題視されているのであるが、日本では1世紀遅れている。