斎藤環の文章で気になっていたこと

斎藤環「生き延びるためのラカン」の一節。

「人間は、去勢されることで、つまりペニスの代わりにファルスを獲得することによって、この象徴界に参入する。(中略)女性に哲学者がいないっていうのも、どうやらこのあたりに関係がありそうな気がする。

(中略)僕が考えるに、哲学者っていうのは、まずなによりも言葉をいちばん厳密に扱う人のことだ。厳密、と言ったって、なにも語源がどうの、文法がどうの、という話じゃない。言い換えるなら、言葉だけで世界を再構築できるかを厳密に問いかける人のことだ。

 


https://www.cokes.jp/pf/shobun/h-old/rakan/14.html

 


うーむ、そうなのかな。この一節はずーっと気になっていた。

 


 「性というのは、ラカンによれば、象徴的にしか決定されない」と述べながら斎藤は「女性」を実体的に語ってはいないか。それに「女性に哲学者がいない」てのも暴言のような気がする。

 


 哲学者の定義、哲学者とは、「言葉だけで世界を再構築できるかを厳密に問いかける人のことだ」そうだけど、具体的には誰が当てはまるのだろう。「言葉だけで世界を再構築」かぁ。

しかし今時、「言葉だけで世界を再構築」することを考えている人なんているんだろうか。そんなことを「厳密に問いかける人」なんているんだろうか。

 というのも哲学とはそういうものかという疑問もあるけど、何よりもここで斎藤はファルスの獲得で象徴界=言葉の世界に参入するとラカンの考えを敷衍し、言葉の世界がファルス中心主義であるのだから、その世界が「男性」的なものであり、男性中心主義に陥るのは当然なのだから、「女性」に「言葉だけで世界を再構築できるかを厳密に問いかける」のが女性に不向きだというのは、殆ど同語反復トートロジーではないのか。

 


 いや斎藤は言葉の世界が男性中心主義だというラカンの思考(独断?)の一例として、或いはその説の補強として、女性哲学者の不可能性をあげているとも読める。

 


 だから気になっていたのは象徴界のファルス中心主義、言葉の世界のその男根中心主義なんだろうと思われる。フロイトのペニス中心主義にしろ、象徴化したにしろラカンのファルス中心主義という、男性中心主義的な思考にミソジニーを読むのはさほど間違いではないだろう。フロイトにしろラカンにろ精神分析の思考を読むのに注意しなくてはならないのがこの男性中心主義であるのは竹村和子の指摘する通りであるだろう。

 


#ラカン

#生き延びるためのラカン

#斎藤環

#女性

#象徴界

 

「人間は、去勢されることで、つまりペニスの代わりにファルスを獲得することによって、この象徴界に参入する。(中略)女性に哲学者がいないっていうのも、どうやらこのあたりに関係がありそうな気がする。

(中略)僕が考えるに、哲学者っていうのは、まずなによりも言葉をいちばん厳密に扱う人のことだ。厳密、と言ったって、なにも語源がどうの、文法がどうの、という話じゃない。言い換えるなら、言葉だけで世界を再構築できるかを厳密に問いかける人のことだ。

 


https://www.cokes.jp/pf/shobun/h-old/rakan/14.html

 


うーむ、そうなのかな。この一節はずーっと気になっていた。

 


 「性というのは、ラカンによれば、象徴的にしか決定されない」と述べながら斎藤は「女性」を実体的に語ってはいないか。それに「女性に哲学者がいない」てのも暴言のような気がする。

 


 哲学者の定義、哲学者とは、「言葉だけで世界を再構築できるかを厳密に問いかける人のことだ」そうだけど、具体的には誰が当てはまるのだろう。「言葉だけで世界を再構築」かぁ。

しかし今時、「言葉だけで世界を再構築」することを考えている人なんているんだろうか。そんなことを「厳密に問いかける人」なんているんだろうか。

 というのも哲学とはそういうものかという疑問もあるけど、何よりもここで斎藤はファルスの獲得で象徴界=言葉の世界に参入するとラカンの考えを敷衍し、言葉の世界がファルス中心主義であるのだから、その世界が「男性」的なものであり、男性中心主義に陥るのは当然なのだから、「女性」に「言葉だけで世界を再構築できるかを厳密に問いかける」のが女性に不向きだというのは、殆ど同語反復トートロジーではないのか。

 


 いや斎藤は言葉の世界が男性中心主義だというラカンの思考(独断?)の一例として、或いはその説の補強として、女性哲学者の不可能性をあげているとも読める。

 


 だから気になっていたのは象徴界のファルス中心主義、言葉の世界のその男根中心主義なんだろうと思われる。フロイトのペニス中心主義にしろ、象徴化したにしろラカンのファルス中心主義という、男性中心主義的な思考にミソジニーを読むのはさほど間違いではないだろう。フロイトにしろラカンにろ精神分析の思考を読むのに注意しなくてはならないのがこの男性中心主義であるのは竹村和子の指摘する通りであるだろう。

 


#ラカン

#生き延びるためのラカン

#斎藤環

#女性

#象徴界