東浩紀もフェミニスト嫌い?

東浩紀はその名著『存在論的、郵便的』1998でデリダの思想の輪郭を驚くほど見事に描き出している。その第二章「(1)バーバラ・ジョンソン「参照の枠組」について」という小見出しのある文章(p102-1054)で、以下のように述べている。「よく知られるようにこの論文を含む一群のイェール学派的な仕事ののち、ジョンソンはレズビアンフェミニズム運動の側に立つためド・マンからの一種の訣別を宣言している。そして彼女はそこで、脱構築フェミニズム運動という「異質(エイリアン)な」行為を同時に行う二重戦略の必要性を強調することになる。しかしここに本質的な問題がある。脱構築と政治的介入、つまり理論(セオリー)と実践とが「異質」とされる以上、何故レズビアンフェミニズムなのかという問いに対し、彼女はもはや理論的に答えることができない。例えば九〇年代の彼女はある論文で、フェミニストを誹謗する怪文書、通常の知的伝統にしたがえば読解対象に値しないテクストをあえて脱構築している。しかしそれは何故か? 前章でも示唆したように、脱構築されるテクストの選択には必ずある欲望が反映されている。そしてジョンソンが女性であり同性愛者であることは広く知られている。とすれば彼女のその態度決定は、もはや素朴なアイデンティティ・ポリティックスと区別がつかない」。


 フェミニズムの思想について執拗に言及するデリダとは異なり東浩紀はこの書の中でこの一節のみフェミニズムについて触れるだけで、しかも脱構築フェミニズムという「理論と実践」との「二重戦略」を主張するジョンソンに対し、「理論的に答えることができない」し、「素朴なアイデンティティ・ポリティックス」だと一蹴する。直後に「八〇年代半ば以降とりわけ目立つようになったデリダによる政治的な諸発言は行動に対し、本書が一貫して慎重」であると語る東浩紀は、脱構築フェミニズムとの「二重戦略」を語るジョンソンの「政治的介入」がよほど気に入らないのだろうし、その後の彼のあえて「ノンポリ」的姿勢を貫く東浩紀を知る者にとってはよく理解できるのではあるが。ジョンソンが「女性であり同性愛者である」がゆえに脱構築フェミニズムに組み込もうとするその「政治的」行為が極めて「理論的」かつ個人的動機と密接に絡み合ったものであるというエコノミー(機構)には目を向けることなく、「素朴なアイデンティティ・ポリティックス」に過ぎないと断罪するのは男性の神経症的語りではないだろうか。そもそもフェミニズムは単に差別における権力関係に注目する思想というにとどまらず、まずもって生き方の思想であることを理解しておかなければならない。たとえば哲学という学問や民族運動などはその政治的活動と私生活とを分けるあるいは、分け得ると考える、さらには峻別するのだろうけれども、フーコーの言うように政治という巨視的な権力ばかりか、人間関係のあるところには権力関係があるとする微視的な視線(「権力は実体ではない。しかしながら、それはまた、その起源を探し求めなければならないような不可思議な属性というわけでもない。権力とは個人間に存在するひとつの個的な関係タイプにほかならない」『フーコー・コレクション 6生政治・統治』p355)を踏まえるまでもなく、第二期フェミニズム以来の有名な〈個人的なことは政治的なことだ〉というスローガンの意味するところは明白だろう。個人的なこと、私生活こそ/まで闘いの場なのだというなら、運動や闘いに疲れた男どもはどこに安らぎや憩いの場を得ることができるのか、という質問に女性は、家庭や家族は男に安らぎや憩いを与えるための場なのか、男を慰めるために女性や家族はあるのか、女性や子どもは男に奉仕する(性)奴隷なのか反問せねばならない。女は男の〈従夫慰安婦〉なのかと。ただこの家族の起源にある「結婚ということそれ自体が、不平等な労働の契約であるという点においてばかりでなく、それが性愛に対する見返りとしての扶養という、最悪で異常な交換の形態をとっているという点においても、まさに暴力なのだ。そして、この暴力を正当化するものこそまさに国家なのだ」(『家事労働に賃金を フェミニズムの新たな展望』1986p121)とマリア・ローザ・ダラ・コスタは主張する。おそらく男性は既成の秩序や習慣や社会体制によって、その男性中心主義的エコノミーのおかげで、学問することと私的生活を峻別し得るのだろうけれども、その秩序の中で自足的に自己の学問的営為を満喫できるのであろうけれども、あらかじめ排除され抑圧され差別され影の世界に追いやられている女性にすれば、女性であるという個人的なことと学問や哲学が相互排除的なものであるとはみなし難くなるのは言を俟たない。まさに〈個人的なことは政治的なことである〉、そこにはヘゲモニー闘争があるのだということだろうか。
そもそも「理論と実践」とを二分法で、二項対立的に語ること自体が現代では問い返されている。理論構築も実践ではないか、理論は現実に応用され現実を動かしこそ理論ではないか、とか。私たちの生きるというプロセスにあって両者は截然(せつぜん)と区別される(べき)ものではない。デリダを論じる東浩紀が「理論と実践」という二項対立を素朴に出しているのは、デリダこそこの二項対立の脱構築の代表格であることを考えると、デリダの思想を曲解し歪曲し自身の都合の好いように用いて、ジョンソンを非難していることになるだろう。東浩紀はオースティンの言語行為論(スピーチアクト・セオリー)(事実確認的なコンスタティヴ/constativeなものと現実に働きかけるパフォーマティヴ/performativeなものという対立的二分法)を批判するデリダについて、彼はパフォーマティヴはコンスタティヴとは截然と区別できないと考えると論じている(『存在論的、郵便的』p15-18)。脱構築はこのように従来別のもの、二項対立的にとらえられていたものが互いに明確には区別できない、差異が明瞭でないものとして、その二項対立という構造を「内破」させる方法/運動なのであるのを了解し、そのようなデリダ脱構築を論じる東浩紀が「理論と実践」とを対比的に語るのはそのテクストの裏切りであり「内破」ではないのか。自らの「内破」の危険を犯してまで、そのことを隠蔽してまでフェミニズムを退けんとする東浩紀の語りは極めて神経症的なのではないだろうか。