『コリアンシネマの再男性主義化』

KYUNG HYUN KIM
“THE REMASCULINIZATION OF KOREAN CINEMA” 
DUKE UNIVERSITY PRESS DURHAM AND LONDON 2004)

 
第一章第二節
 どこにも行き場がない:市民権を無くした道行く男たち(p52- 55)
 
朝鮮戦争(1950-53)休戦後7年にして作られた韓国で最も 記念すべき映画「誤発弾(兪賢穆監督1960制作)は、 経済的に立ち行かなくなった絶望的な家族を描いている。 この作品の最も率直な場面の一つが、 殺風景な家の一隅に横たわる老婆の歌う古い歌「 ここを出て行こうよ!」によって表現されている。 死の床に着く女性の恐ろしく暗い叫びは作品中で幾度か反復され、 家族が占めることを余儀なくされている残酷で窒息しそうな領域を 私たちに想起させるのだ。 家は土間の中央にベッドが据えられた掘っ立て小屋に過ぎない。 マル(maru/明けっぴろげの木製の床) に横たわるのが見えるその老婆は他の家族から隔離されえない。 家には八人(with one more due⁑この部分訳せず)の家族に部屋は二つしかなく、 皆はホールに群れるしかないが、 そこは粗末な屋根に蔽われた裏庭の土地という空間なのだ。 家は戦争の被害に遭ったソウル郊外の山地に北からの避難民が一時 的に潜んでいる共同体である解放村に属している。 同じ時期に作られた「下女(金喜泳監督1960制作)」 のそれとは異なり、 家は外的脅威の招きよせられる以前でさえ居住不可能なものであっ た。どこかに移されたいという母親の望みのない欲望には、 作品の歴史的な背景がはっきりと現れている。歴史は、 消されているというより、「出て行こうよ!」(韓国語では、 この母親の台詞は“カジャ”と二音節で発音される) というシンプルなフレーズを通して強固に喚起されるし、 休戦協定に調印された後においてさえ戦争の恐怖を留めているのだ 。家はここ韓国にあり、同時にどこか他にある。 共産国北朝鮮と資本主義韓国の二つへの朝鮮の分割は、 故郷に帰りたいという古典的な亡命者の単純な欲望を成立させるも のではない。


 ロードムービーというジャンルについての議論のための出発点とし て「誤発弾」のこの場面を選ぶことはアイロニックかもしれない。 この不動で脆く年老いた老女のイメージは、 西欧の観客の親しんだロードムービーというジャンルの慣例にほと んど合致しない。韓国文化では、故郷・避難・失郷はすべて、 無理やり家族を引き裂いた暴力的な近代の歴史のおかげで、 戦後世代に対してだけでなく心臓の張り裂けるようなエモーショナ ルな情感に訴える意味を持っている。そして、 多くの人が被った家を無くすことや家族が離散することで、 路の意味は通過でも自由でもない場所として展開されるのだ。 それは、回復の及ばないトラウマ経験、 帰る場所のない市民権喪失、実現不能な路を残し て死んでいく見込みといった経験を人々が体験する場所である。 路は一時的な場所に過ぎないが、しかし、 民族統一の遠い見通しと近代化という暴力的な介入を経て、家/ 故郷(home)や家族を無くした数千人の避難民にとっては永遠の場所でもあ る。死の床に横たわりつつ絶望的に「ここを出て行こうよ!」 と繰り返す老女のイメージは、 韓国のロードムービーのある兆候をよく示している。 その兆候とは、南に逃げて来て以来、自分の家/ 故郷は永遠に失われたのかもしれないという恐れを意味する。 特に強調されなければならないのは、韓国映画における路は、 多くの暗黙の仕方で家/故郷に結び付けられているということだ。 家/故郷と家族は韓国のロードムービーの多くには現れないが、 現れないことはその完全な 消失を示唆するものではない。逆にそれらは常に再-想起され、 フェティッシュ化されている。植民地主義、戦争、 近代化のために引き起こされた悲惨で残酷な歴史に対する反応とし て、去勢され、 トラウマ化された韓国の男どもは路に繰り出すのだ。 登場人物たちは、圧倒的な風景に視覚的に取りこまれ、 また歴史的な受難の犠牲となっているが、 そのことが絶えざる流浪を再び決定付けるのだ。「 イージーライダー(デニス・ホッパー監督1968制作)」や「「 テルマとルイズ(リドレイ・スコット監督1990制作)」 といった、登場人物たちが家/ 故郷から逃亡しようとする多くのハリウッドのロードムービーとは 異なり、 韓国映画は自分たちの家族と過去を再設定しようという無駄な努力 をし、喪われた家/故郷を追い求める男性や女性を描くのだ。


 市民戦争(朝鮮戦争) 前の時代を生きぬいた最も早い時期の作品の一つ「 故郷は心のあるところに(韓瀅模監督1948制作)(「 心の故郷」1949年ユン・ヨンギュ監督作品のことか⁑訳者注)」 から、比較的最近に制作された「風の丘を越えて西便制( 林權澤監督1993制作)」に至るまで、韓国映画では、家/ 故郷はと捉えどころのない場所である。 朝鮮戦争後の時代に北や南の映画として製作され多くの喝采を受け た作品において、 汚染され疲弊した肉体から歴史的な苦痛を一掃する調和の取れた共 同体社会である家/故郷を求める欲望は強烈に示されている[1] 。強固な家/故郷を定めることの不可能性は、永遠に路を旅する「 風の丘を越えて」の流浪音楽家同様に、家/故郷を探すこと、 そしてはっきりとした民族的アイデンティティの代理として、 絶え間なく続けられる空間として、今なお路を活性化されている。 80年代と90年代を通じて、 ロードムービーの流行は計り知れない。この章で論じられる「 風の丘を越えて」は93年に初めて封切られた時、 ヒット記録を塗り替えた。80年代最大のヒット作「鯨捕り( 裴昶浩監督1984制作)」もまた、 ピョンテの成長の旅を描いたロードムービーである[2]。 たとえば「馬鹿宣言(イ・チャンホ監督1984制作)」や「 ギャグマン(イ・ミョンセ監督1988制作)」 といった多くの他のコメディ映画も、 トラウマ的傷を負った主人公が自らの健康を回復し救済を求めよう とする場所である路が舞台だ。私はこの章で、 家族の絆を持たない苦痛、オイディプス的不安、そしてポスト・ トラウマ的衝撃を記した路に裸で横たわる主人公の苦難について論 じる。


 模範的なロードムービーは、植民地的過去、戦争、 そしてそれに続く分割の記憶がぎっしりと埋まった歴史的言説の条 件のみならず、 男性的言説から方向転換した新しいシネマを作ろうとする努力を一 貫して挫折させる現代におけるディレンマをも、 決定付けているのだ。あらゆるロードムービーにおいてと同様、 自己の再生はこれらの映画においても目標としてあるが、 しかし映画の終わりに再構築される主体性なるものは男性のそれだ けなのである。 民族の歴史の過程で生み出された暴力のおかげで破壊されてしまっ た家/故郷を再生させようとする強い衝動は、 ロードムービーにおいてさえヘゲモニー的な語りの慣例を解放しは しないのだ[3]。20世紀を通じての日本およびアメリカによる 植民地的軍事的占領は韓国の男性と女性を弱体化させ悩ませてきた が、 女性たちが主に映画の主題的関心の範囲外に置き去りにされて来た 一方で、 男性のトラウマがこれらロードムービーの多くの語りを駆動する最 も中心的なものとして現れている。この章で焦点化される「The Man with Three Coffins」「風の丘を越えて」「Out to the World(Yo Kyun Dong監督1994制作)」三つの映画すべてにおいて、 亡くなること(「The Man with Three Coffins」と「風の丘を越えて」)や外国移住(「Out to the World」)によって、妻をなくすことが描かれており、 男性主人公すべてが苦しめられる。映画が始まってすぐとか、diegesis(語り手による出来事の説明⁑訳者注) がまさに始まる前に起こる現実の死とか失踪とかにより、 女性の欠如や不在が男性的アイデンティティを混乱させつつ脱中心 化している。 アメリカのロードムービーに典型的に表現されている田舎くさい従 順さから自らを遠ざけるのではなく、男性の登場人物すべてが、 この喪失や家/ 故郷の代替や回復のために小高い韓国の風景の中にある雪の路をさ まようのだ。しかしこの回復の過程で、 これらの韓国映画は男女間ではなく二人の男性登場人物の交渉に注 目が集められていく。結局、妻は若い女性に代置される(「 風の丘を越えて」の場合は若い娘)が、 それでも女性はまだドラマに付随的なままで、 彼女自身のナラティブを導き出すことは出来ず、男 性の価値ある対象物のままである。 エディプス的な力により生み出されたこれらの緊張を介して、 個人的なトラウマを克服しようとしながら、 再充電された男性性が出現するのである。
 
(映画名は出来る限り扈賢贊著『わがシネマの旅― 韓国映画を振りかえる』(凱風社2001)に従った。訳者注)
 
 

[1] 「血の海(朝鮮映画 監督1969制作)」や「花の娘(朝鮮映画 監督1972制作)」 という評価の高かった北朝鮮の作品にあってさえ、 路は苦難の場所として描かれている。
[2] 「鯨捕り」に関するより詳細な議論のある「序章」を見よ。
[3] 同じパターンをアメリカのロードムービーにも見ることができる。 一方で合衆国のロードムービーは映画の諸ジャンルにより発展させ られ公式化された神話をしばしば破壊したり不安定にしたりするが 、他方で男性性を再構成してもいるのだ。換言すれば、 ロードムービーは、 歴史のある瞬間において去勢の脅威によって混乱する男性的主体を 回復するのに役立っている。Ina Rae Harkは「ハンドルの向こうやバイクの上の男性は、 スピードを出したり、カーブを曲がったり、 どの出口のスロープを取るか決定したりするが、 それこそが男根的興奮を与えるのだ」と書いている。(“Fear of Flying: Yuppie Critique and the Buddy-Road Movie in the 1980,”in The Road Movie Book, ed Steven Cohan and Ina Rae Hark[New York: Routlege 1977],214)