潜在的ミソジニー?


イ ヤンジの中編『刻』、これは傑作。ジョイスの『ユリシーズ』を換骨奪胎し、独自の工夫を凝らした名作だ。

 

だけどもあまり評判が芳しくない。そこで思い出すのが竹田青嗣の批評、彼が「在日の作品というより女性のそれだと感じる」という感想を述べていたのだった。出典は失念。(ちょっと調べれば分かるけど、病床なのでご容赦)竹田は在日は在日らしい作品を書くべきで、女性作家らしい作品など書かなくても好い、女性臭フンプンたる作品は在日に相応しくないとでも言いたかったのか。そんなことはあるまい。

 

竹田は在日の在日である根拠はそんな作品の在日臭にあるとは言っていない。自身のペンネームを好きな「日本」の作家から拝借したと公言する批評家なのだ。

ところで竹田は『刻』が在日臭より女性臭が強いとでもいいたかったかのようなこの評言は何なのだろう。在日作家というより女性作家の作品のようだ云々。

ここで翻って「在日の作品というより男性の作品という感想を持つ」なんて評言がかつてあったろうか。ない。見たことないし、見ることもないだろう。「より」という語から、在日の作品であることと女性の作品のあることとが比較計量の対象とされているかのよう。しかし明らかに両者は比較対象概念ではないだろう。

 

強いて言えば、女性作家の作品は在日作家の作品に含まれる、或いは下位概念と上位概念の差なんだろうか。

 

いずれにしても竹田の評言には、在日作家≒男性なのであり、女性作家を密かに排除していることがコノートされているのではないか。在日作家≒男性は、また即座に在日作家≠女性をコノートしないかということだ。

 

誰も金石範の作品『火山島』を評してわざわざ男性作家の作品だとは言わない。あれほど「男性臭」に満ちたマチズモ丸出しの作品(個人の感想です)をしも男性作家の作品とは決して評されない。

竹田がミソジニストだと言いたい訳ではない。『在日という根拠』でも、金鶴泳を高く評価し金石範に批判でさえあった批評家だ。

 

ただ「在日の作品というより女性のそれだと感じる」という評言には、ミソジニーが読み取ろうとすれば読み取れるということだ。竹田にしてさえもふとミソジニックな表現が漏れてしまうということは見過ごして好いのかどうか。

 

斎藤環
「女性に哲学者がいない」
と不用意な発言をしていた。


斎藤環「生き延びるためのラカン」の一節。 「人間は、去勢されることで、つまりペニスの代わりにファルスを獲得することによって、この象徴界に参入する。(中略)女性に哲学者がいないっていうのも、どうやらこのあたりに関係がありそうな気がする。 (中略)僕が考えるに、哲学者っていうのは、まずなによりも言葉をいちばん厳密に扱う人のことだ。」


竹田にしろ斎藤環にしろ、優れた書き手が、読みようによってはミソジニー丸出しの言説を吐くことが気になって仕方ない。

 

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