Chungmoo Choi氏の出色の映画論 林權澤『西便制』と『族譜』

“Im Kwon-Taek  the making of a Korean National Cinema”2002

『林權澤 韓国民族映画の創造』

 

 

Chapter 4

The Politics of Gender, Aestheticism and Cultural Nationalism in Sopyonje ant The Genealogy

「『西便制』と『族譜』におけるジェンダー政治学、審美主義及び文化ナショナリズム

 

映画『西便制』に、父であるユボンが韓国の昔ながらの荘重な朝鮮家屋のベランダに腰掛けているシーンがある。彼の前に伝統的な楽器〈コムンゴ(玄琴)〉を奏でながら一人の儒者風の紳士が座っている。ともに白地の正装に身を包んだまま口をつぐむ二人の周りを〈コムンゴ〉の荘厳な響きが漂う。この〈コムンゴ〉のシーンの前にはユボンが養女ソンファの流れるような髪の毛を梳(くしけず)るシーンがあり、白い肌着を身にまとった盲目の少女ソンファは近くの仏教寺院から朝もやの中に鳴り渡る鐘の音に耳を澄ましている。〈コムンゴ〉のシーンはすぐに独りで部屋の中に座るソンファのシーンへと切り替わるが、今度は白い肌着の上にワインカラーの絹のチマ(ブラウス)、それにゆったりした裾の長いダークブルーのチョゴリ(スカート)を身にまとっている。カメラは外から壁と障子の扉の隙間を通して部屋の中へと近づき、覗き魔的な雰囲気を醸し出している。これらの前後するシーンをつなぎ合わせると、驚くべきことに気づくのだ。すなわちこのシーンはユボンがソンファの視力を奪うために注ぎ込んだ毒が次第に効果を発揮しているのだということに。ソンファの盲目を確認したあとで、彼は自分の目的をソンファに告げる。二人が互いに腕を組んで遠ざかるシーン、盲目のソンファはくるぶしをあらわにした質素な黒のスカート、白いブラウスの上に明るい色のセーター、そして首にまいたウールのスカーフの上に編んだ髪が垂れている。続く二つのシーンでは、彼女は上まで編み上げた髪にとてもゆったりしたチョゴリという伝統的な既婚女性の身なりなのだ。

 これらの視覚的イマージュはプレ植民地時代の朝鮮の妓生(キーセン)文化を思い起こさせる。その時代、若い娼妓が男性のパトロンによって処女を奪われた時、髪を束髪で結い上げ男根を思わせる簪(かんざし)で固定する。この儀式は婉曲的に“髪上げ”と呼ばれている。これはパトロンが娼妓を自分の愛人としたことを意味する。この言い回しは決して一般女性には適用されない。にもかかわらずソンファのお下げから束髪への髪型の変化は彼女の地位の変化を指示している。明るいブライダルカラーと対照的な濃い色調の衣服はまた妓生を連想させてしまうのだ。

 以上のことは、ユボンが無防備な養女を盲目にした上にレイプし情婦にしたということを作品が暗示しているのだ。中年男性と女の子が腕を組んで散歩するというシーンが視力を失ったソンファが彼女の肉体への男の欲望を喚起し刺激したという二人の性的な関係を作品は強調しているのである。朝もやの深く立ち篭める中でユボンがソンファの髪を梳るシーンは養女が情婦になったという二人の親密さをいっそう示唆している。この朝もやで思い起こされるのは、Wong Kar-Wayが映画『Happy together』で遺憾なく発揮したイマージュ、性的な結びつきを意味する〈雨と靄の情熱〉という昔ながらの表現だ。ソンファが視力喪失から既婚女性の装飾で全身を飾って登場するまでの連続した4シーンをトータルに勘案するなら、高度に寓意化されてはいるが文化としてのいわゆるレイプによる近親相姦を表現しているのだと言える。この連続したシーンの最後、普通ではなくなった女性が独りで部屋に座す姿が喚起するのはソンファがこれから直面する厳しい未来、つまりまず父の愛人として、次に無数の男たちの前で朗唱する盲目の芸人としての未来を予言しているのである。

 これら三つのシーンは近親相姦的な二人の関係を暗示しているのだが、媒介となっている〈コムンゴ〉を演奏する老人の登場するシーンはいかにも謎めいている。とはいえこの老人が誰であり、なぜこの重要な場面で登場するのかという議論は、ユボンの死の床のシーンに至るまで取っておきたい。死の床に横たわり、ユボンはソンファの視力を奪ったのは自分だと告白する。しかし彼女の許しを得る代わりに、彼女の恨(ハン)(怒りと哀しみの抑圧された心情)を深めるためだったのだと、自らの残忍さ(および口には出されないがレイプしたこと)を正当化するのだ。ユボンにすれば、〈パンソリ〉の歌い手は恨(ハン)を体現していなければならない。というのも恨(ハン)は美的極地に至るための必要条件なのだから。言葉を変えて言えば、ソンファの〈パンソリ〉を完成するためにユボンは視力を奪い娘を犯したのである。

 この論文で私は、植民地化されたコリアン男性が、植民地化された同朋女性や去勢された自身に暴力を加えることで、そのナショナルアイデンティティと男らしさを奪われたことに応えようとするそのやり方について論じようと思う。『西便制』のユボンと『族譜1978』のせつ薜(ソル)のそれぞれによって表現された二種の男らしさに焦点を当てることで、歴史的な暴力のこの結びつきを検証してみたい。さらには、いかにしてこのような男らしさの回復のやり方が、植民地主義の眼差しから自由ではあり得ないシネマの美学的規範と、より大きな暴力を振るう男性中心主義的な文化ナショナリズムの両者と重なっているか、を精査してみたい。

 

西便制』に見られる恨(ハン)、植民地的近代そしてノスタルジア

 

西便制』は〈パンソリ〉として知られているが今や廃れつつある口唱芸能を何とか守ろうと苦心しながら各地をめぐる歌い手たちの家族の一人、老獪な男を登場させる。家族を率いるユボンはいつか〈パンソリ〉が再び日本の演歌や西欧のポピュラーソング以上の人気を得るだろうという信念に取り憑かれ、養子の息子と娘が音楽的完成を成し遂げるよう過酷な訓練を施すのであった。しかし映画が進むにつれて、〈パンソリ〉は廃れゆき家族の困窮の度は増していく。トンホとソンファが思春期を迎え性に目覚める頃、ソンファをめぐってトンホとユボンの男性としての微妙な競合関係が芽生え始める。ソンファの性的な魅力に惹きつけられて行くことの行く末を恐れてか、あるいは貧困の惨めさにうんざりしてか、トンホはユボンとの口論の末、家出をしてしまう。トンホが去ったあと、ソンファはひどく傷つき、悲しみのあまり病に倒れてしまう。彼女の看病を利用して、ユボンは薬の中に毒を入れてソンファの視力を奪ってしまう。村ではユボンが、ソンファが逃げ出さないようにと視力を奪ったのだという噂が広まったが、ユボンはソンファの朗唱の訓練に専念した。ユボンの死後、ソンファは〈パンソリ〉芸人として何とか生活費を稼ぎながら居酒屋をめぐり歩いている一方、結婚し一児を設けて父となったトンホは小さな製薬会社に収める薬草を収集する仕事をしながらソンファを探して田舎を旅していた。とうとうソンファを見つけた時、彼女は人里離れた塩田の傍にある居酒屋の主人と暮らしていた。何年も二人は互いに相手を探し求めていたのに、いざ出会った時、二人は自分たちがその相手だと互いに認めはしなかった。メロドラマ的なエンディングとは裏腹に、映画は〈パンソリ〉の曲目の一つでソンファが見事に修得した『沈清伝』を二人が一緒に演奏する様子を描く。二人はこのようにして恨(ハン)を昇華したのだ。翌日二人は異なる方向に旅立ち、観る者はソンファが一人の娘を養っていることを知るのである。

 『西便制』は興行的に大成功を収めた作品であり、言うまでもなく林權澤の商業的に最も成功した作品である。この成功の意味することの一つは恨(ハン)の集合的なほとばしりーーそして観客から溢れる涙を引き出した方法である。当時韓国のマスメディアはこの集合的な情動は韓国人が共有している恨(ハン)の感情に起因すると解説した。対照的に批評家の中には、この作品が哀しみの感覚を創り出すのではなく、むしろ『西便制』現象は観客が自身の歴史的に根深い恨(ハン)の心情を作品に投影していると理解すべきなのだと断言する者さえいた。(恨(ハン)は抑圧や疎外や搾取の感覚を表出することが出来なかったり許されていない時に増殖する心情である。というのも人は不公平な権力関係に絡めとられているのだから。表出不可能な怒り、苦痛、哀しみや怨みは恨(ハン)に籠められるのである。)メディアと批評家が触れているこの集合的なコミュニタスcommunitas[1]は韓国近代史の二つの局面の交差するところに現れる。一つは近代という前代未聞の経験が分節化不能である時、もう一つは圧縮された近代化の過程で安定した過去の失われてしまったことを嘆き悲しむ時である。

 前植民地期のコリアにおける権威主義的な儒教規範の下では支配者はすべての権力を握っているから、必然的に被支配者は何も持たされておらず、人々は抗議の主張や政治的な運動ではなく、巫術的な儀式、逸脱、カーニヴァレスクな見せ物芸によって、不満や恨(ハン)を束の間、解き放つしかなかった。これらの行為はしばしば農民暴動へと急転するものではあったが。十九世紀後半に国内の近代的組織化の試みが短期間で終ったあと、朝鮮人たちは、儒教と同じく権威主義的な日本の規範のもとで、植民地近代という矛盾した体制に直面することとなった。植民地支配の下では、一般的な朝鮮人の行う美的なコミュニケーションの形態や市民が共同で行う抵抗のドラマは、近代的な〈科学的〉行政府、印刷メディアの合理的なナラティブ、文明化という名目での個人主義の追及とは対立するものであった。このいわゆる近代的な行政府というものは、実際のところ、近代西欧の行政府のあり方と、朝鮮と日本の慣習の日本的融合物との混合であり、植民地的法と秩序を押し付けるためにアレンジされたものでしかなかった。ここでは二つの論理システムが衝突する。一つは真偽の検証を強調する科学的な合理主義、といってもその真偽の基準は植民地当局の定めるものであるのだが。もう一つは文化的な慣習にまつわる分節化不能な美的適切さ。植民地化は文化的かつ美的なコミュニケーションよりは近代的な合理性を重視するから、コリアンたちは文化的な言語を奪われ一種の歴史的な恨(ハン)を蓄積させて来たのである。

 〈パンソリ〉は十八世紀のコリアに現れた芸能であり、十九世紀後半には完全に商業化された。『西便制』は東の音楽である東便制と西の西便制という二大流派の一つであることを意味する。東便制が男性的で壮大であるのに対し、西便制は恨(ハン)と哀しみを強調する。〈パンソリ〉という芸能は初期の市場経済の発展に伴って現れた。〈パンソリ〉の歌い手たちは一般に新羅地方の流浪巫族の一員であり、大衆的な表現に富む口唱伝統に則ってレパートリーを築き上げてきたが、その初期から〈パンソリ〉は大衆的な芸能というよりは商業的な芸能であった。〈パンソリ〉はあからさまに転覆的なものだとはとうてい言えないとしても、支配階級の文学伝統に挑戦するものではあった。世紀の変わり目に都会の中心には多くの劇場が生まれて来て、〈パンソリ〉は商業的な成功を次第に収めつつあった。けれども朝鮮が植民地化されるにつれて、日本の新派[2]にふさわしい形式の劇場がコリアン劇場に取って変わり、1909年には日本の警察が〈パンソリ〉の一団を解散させた[3]。その後、植民地期を通して〈パンソリ〉は次第に衰退の途を辿ったし、地方での巡回芸人としてわずかの歌い手が生き延びたに過ぎない。〈パンソリ〉というジャンルは1970年までコリアンの集合的記憶からはほとんど消え去っていた。この年、反体制派の詩人金芝河朴正熙の軍事体制を風刺する記念碑的な口語詩『五賊』で〈パンソリ〉のリズムを採用した。その政治的な要素のおかげで〈パンソリ〉は民衆文化と抵抗精神のシニフィエとして反政府運動の活動家たちの関心を引いたのだ。同じ頃、南韓政府は巧妙にも〈パンソリ〉を保護の対象としたのだが、しかしそれは活気に満ちた大衆文化としてではなく、文化保護法に基づく保護条件に従って厳格に維持される〈無形文化財〉としてであった。この法律は朴正熙が軍事クーデタによって政権を奪った7ヶ月後の1962年1月に公布された。(同じように、同じ名前の日本の法律の採用はこの世紀の変わり目に文化遺産保護委員会の推薦の下で法制化された。)文化財保護法の制定に伴って、軍事政権は民衆と一体化する手段となるべき文化イメージを創造するために文化ナショナリズムを普及させようと可能な限りマスメディアを動員した。

 このように〈パンソリ〉は韓国政府の公定文化ナショナリズム倒政を打倒するための文化的抵抗の闘争の場となった。占有する多様な公的媒体を用いて政府が〈パンソリ〉を広めようとするのに対し、活動家たちは歌詞を抵抗的なものに変えたり非公式な場で〈パンソリ〉を上演したりした。しかし政府の検閲がこの闘争を不可視のものとし、一般大衆は〈パンソリ〉を主に郷愁を誘うものとして消費するばかりであった。『西便制』は軍事体制下の過度の男性中心主義的民族イデオロギーとともに、〈パンソリ〉のこの新しく創られたオーラを利用した。事実、政府の取った戦略と『西便制』の物語構造とはとてもよく似ている。ナショナリズムという名目により民族からその声を奪い国土を荒らした資本主義的開発は、ユボンが娘の視力を奪い、〈パンソリ〉という民俗芸能を完成させるために彼女の肉体に暴力を加えたことと瓜二つではないか。上記のことはポストコロニアルな民族の諸刃の剣にして逆説的なアレゴリーとなる。即ち反植民地主義ナショナリズムは女性としての〈他者〉の自己構築を促す反面、互いに相殺し合ってシネマ的恨(ハン)を蓄積していくのだ。

 ポストコロニアル期の韓国が冷戦期間中は積極的に資本主義側の体制秩序に加担して、近代の強いる同質化の圧力はさらにその市民を沈黙に追いやった。韓国を開発一辺倒の隘路へと追いやった普遍主義的な科学主義が非合理的で前近代的なそれゆえ社会的悪としての大衆の伝統的なコミュニケーションを価値のないものとしてしまった。その代わりにかつては有機的な大衆文化が〈民族文化〉という名の下で、産業社会における舞台芸術とされたり、博物館に展示されたり、劇場用に改変されたりして、単なる見せ物として商品化されることとなった。この大衆芸能の商品化は恨(ハン)がそれを通じて解放されたかもしれないコミュニケーションとしての意義を奪ってしまった。見せ物化された〈大衆芸術〉は空疎なシニフィエであり、人々からその声を奪ったのである。さらには必死に近代化を追求した権威主義的な軍事政権は人々が声を挙げることを是とする近代社会のあり方を否定し、国家安全法によってあらゆることに適用可能な厳しい検閲を課した。多様なコミュニケーション手段を奪われて韓国の人々の沈黙は否応にも深まって行った。同様に『西便制』でも父権制に縛られた韓国の女性は二重に沈黙を強制される。父権制および沈黙する国民という民族的共犯によって。かくて彼女は恨(ハン)の象徴となる。『西便制』の観客という集合的コミュニタスはかくてポストコロニアルの沈黙化と交差する地点に位置づけられ得るのだ。

 『西便制』は恨(ハン)を郷愁に結びつける。作品はアメリカの大衆文化が韓国僻地の未発達な市場に押し寄せたポストコロニアル期に設定されている。その時期の慌ただしさは三人の放浪芸人たちの性急な足取りと重ねることで示唆されている。三人の足取りもまた韓国の急激な近代化の速度を表現してもいる。作品は二世紀に渡る西洋の近代化が数十年に圧縮されていることを表し、この経緯の曖昧な細部をそぎ落とし、歴史感覚を麻痺させている。ユボンの〈パンソリ〉復興の予言にもかかわらず、この放浪一家は小さな町の食堂で開かれた宴会の場で演奏したり、田舎の市場(いちば)で偽医者のために人集めの芸を披露したりしていた。〈パンソリ〉一家の遍歴は、自発的なコミュナル文化が地方での薬品の宣伝販売のための余興(これこそ資本主義的大衆文化の様式だ)にという大衆芸能のゆるやかな頽落を示している。一家の生活は有機的な大衆文化が非有機的な商品への、つまり使用価値から交換価値への移行を例証しているし、これは伝統と近代という関係を生み出す構造的対立を描き出すのだ。

 マーシャル・バーマンはノスタルジアという語は産業化により破壊された過ぎ去りし過去への憧れを意味する近代的な感情を記述するために19世紀に創り出されたと記している[4]。矛盾する要素がノスタルジックな衝動を産み出す。〈パンソリ〉はこのような矛盾した時期に、ノスタルジアと韓国で始まったばかりの資本主義的発展との交点で生まれた。一世紀後にはそれは韓国の徹底した産業化のせいで今や消え去ろうとしている〈伝統的〉な大衆芸能として再創造された。この移り変わる時代を捉えることで、『西便制』は韓国の過ぎ去ったばかりの過去における人々の一連の日々の営みを呈示し得ているのだ。例えば、ある時、移動歌劇団が日本の植民地支配の名残である人力車に乗って通り過ぎた。その劇団が市の開かれる広場の即席舞台で、よく知られた恋物語春香伝』を演じた。観客たちは韓服の上に西洋のジャケット、足には西洋風の靴という何ともちぐはぐな組み合わせの装いである。旅する民族画家の綿入りの日よけ帽は、アフリカとかインドの西洋の植民地を連想させる点で、顧客たちに与えている民俗的な祝福とは対照的である。近代と前近代のもののこのごちゃ混ぜは、同じように折衷的で訳の分からないものから出来上がっている万能薬を売る行商人にも顕著である。さらにたくさんの鉄のハサミをガチャガチャ言わせている手押し車の菓子売り、彼は人々の使用済みのものとわずかなキャンディーとを交換する近隣の常連であるのだが、彼の行為もまた個の刻印のあるものを非個人化する点で物々交換の折衷型である。韓国の少し前までの過去から集められたこのシーンは観客たちを居心地のよい映画館で朝鮮戦争中の空腹で貧しかった日々の懐かしい思い出にふけさせるのだ。

 『西便制』はあらゆる土着のものごとが西洋に由来する商品に入れ替わって行ったつい先頃までの過去のビジュアルツアーを提供するのだが、それは日々の生活がちぐはぐな折衷によって特徴づけられていた。これら日々の生活のものごとは、朝鮮のナショナル・ヒストリーや〈パンソリ〉そのものの民族的表象と同じく、過去を理想化し人々を一体化させる効果を持つ。だがシネマ的ノスタルジアは必ずしも過去における日々の生活への憧憬を意味するものではない。重要な点はそれらの素材が具体化し喚起する社会的記憶なのだ。映画の観客にとってこれらのノスタルジックな装置は過去がユートピア的なものと見えるようにではなく、産業化以前の共同体の感覚の重要性を呼び起こすように作動するのだ。過去において確かなものであったと信じている情緒的な自発性とか道徳の確実性とかいうもののアウラが美的解放と恨(ハン)の昇華をもたらすのである。この意味で、新しく想起された過去は韓国の観客たちに安全性と家/故郷の感覚を与えるのだ。家/故郷の安全性は記憶の中にのみ実在するのだから、〈パンソリ〉の栄光を取り戻すことで家/故郷を再配置しようとするユボンの欲望が現実おいて満足させられることはあり得ない。悲劇はユボンが女性に向かって男性としての暴力に訴えることでその不可能を可能にしようと苦闘することにあったのだ。

 皮肉なことにこの悲劇は記憶に残る過去の風景を捉えるカメラのノスタルジックな視線によって演出される。John Frowは、ノスタルジアとは元からありもしないものを捜し求める心情なのだが、そのありもしないものによって存在論的なホームレス/故郷喪失に由来する欲望のメカニズムが生み出されるのだと論じている[5]。ホームレス/故郷喪失の感覚は、脆弱な前資本主義的技能を見世物とすることで後期資本主義社会を生き抜こうともがきながらユボンが勝手に集めた放浪家族によって表象されている。カメラが穢れのない風景の中を行く家族の姿を追うにつれて、都会の観客は田舎と都会の、中心と周辺の、現在と〈他者化〉された光景としてのつい先ごろの過去との感覚の間にある落差に気づきながらも、自身は安全なところにいるという感覚を経験するのである。

 実際、作品は、市の開かれる広場の中心での朝鮮の田舎の生活(強烈な資本主義の発展によって覆われ遂には三十年という短い間に破壊されてしまったものだ)を見世物的に描いている。機械的な輸送さえこの過ぎ去ったばかりの過去には欠けている。列車やバスが初めてカメラに捉えられるのは物語の終わりの方でトンホがソンファを探し求めて地方を駆け巡る時である。この過ぎ去ったばかりの過去では韓国はあたかも処女地のようであり、近代技術からあまりにかけ離れていてテクノロジーのもたらした革新をちっとも知らないかのようである。作品は重要な歴史的事実を無視している。つまり朝鮮は植民地期を通じて大日本帝国の産業的前線であり、朝鮮戦争の間にはアメリカが事前にテストしないままのナパーム弾による爆撃で森林を破壊しその土地を傷だらけにしたということを。対照的に、美しく手入れされているがそれでもまだ開発途中の自然を背景にしてのホームレス/故郷喪失の家族が歌いながらさまよう光景は林權澤のお得意のロングショットによってわくわくするような映像を提供している。ホームレス/故郷喪失のユボン一家が放浪する素朴な土地はカメラが旅行者の視点で描き出す荒野である。観光旅行は発展が一様でない土地へと惹きつけられるノスタルジアによって育まれる。別のところで論じたように、作品の美的フレームはそれらを再発見することでそれらの光景を〈神聖な汚されていない、即ちまだ開発されていない処女地〉として異国情緒たっぷりにまたエロチックに描くのだ。そのことによってカメラの視線の外にある強烈に発展した産業国の風土は覆い隠されるのだ[6]。ということは『西便制』は植民地男性の視点とそれに呼応する他者化された女性主体の両者の視点を採用していることになる。この自ら古風であろうとするようなself-primitivizing 、男性視点を内面化した娘は、資本主義的発展からを周辺化された父親の男性的欲望を満たす民族主義的な文化技能である〈パンソリ〉を完成させるために盲目にされるのである。

 『西便制』は韓国のポスト植民地という比較を絶する経験を鋭く描いている。前植民地期の美的コミュニケーション手段である〈パンソリ〉を取り戻すことで民族的な恨(ハン)を昇華させようとする作品なのである。民族的アイデンティティを回復しようとする重荷に耐えつつ犠牲になった女性の恨(ハン)に焦点を当てることによって。つまり犠牲となった女性は国家/民族の救世主的な役割を与えられているのだ。このことが私たちをポストコロニアルの韓国の家族や民族のみならずジェンダー構築の問題へと導いていく。

 強制された近代と非近代という矛盾に満ちた植民地期にあっては、土着の文化は伝統的な父親たちとその権威の価値を貶めた。彼らは国家を改革し近代的で強力な植民地支配に立ち向かう進歩的な知識と技術を欠くために、社会の指導者としてはふさわしくないという審判を下されたのだ。不十分で不適格な父親の構造は植民地期や独立後の近代小説にことによく現れている。例えば姜敬愛の小説『地下村1936』、ごく初期の『裸の木1971』から『未忘1990』までの多くの朴婉緒の小説、そして近頃では、Ch’oe Myong-huiの『魂火』。不適格でしかない男性の権威は、李箱の『翼』に登場する未熟な娼婦の妻に依存する知識人の夫、そして朴景利の浩瀚な大河小説の『土地』に描かれたインポテンツの家長Ch’oe Ch’i-su、などを含めることができる。植民地期の父親はどう見ても周辺化され去勢され疲弊した姿をしているのだ。

 破産した家長たちの多くは植民地期に生き延びるための道を求めて合法非合法を問わず国外に逃れたから、数え切れないほどのコリアンの家族は父親の不在という事態を被ったのは間違いない。だが多くの女性たちことに若い女性たちが家族の口減らしのために出て行かされたのも間違いない。彼ら彼女らは過酷な植民地の経済競争の中で生活費を稼ぐことができるだろうとは夢にも思っていなかった。その意味で、想像上の父親の不在はこの時期のコリアン家族の紛れもなく精確な社会学的表象であり、植民化されたコリアン家族の父親的権威の不在の象徴的表現なのである。これらの小説作品は植民地支配のもとでの近代朝鮮における男性性の喪失を物語っているのである。

 望ましい父親たちの不在という状況の中で、民族の将来の重荷はその息子たちの肩にかかっていたし、姜(カン)大振(テジン)の映画『荷馬車1961』に見られるようにその責任は解放後も続くのだった[7]。注目すべきなのは類似の現象が北朝鮮の古典的な映画、『血の海1969』と『花を売る乙女1972』にも現れていることだ。母親あるいは『花を売る乙女』では若い娘が貪欲な地主ないし大日本帝国軍といった人民の敵に抗って生き延びようと自らを犠牲にするのである。彼女たちの闘争の終わる頃、長い間行方の知れなかった息子/兄弟が戻って来て革命家としての自己を確立するのだ。北朝鮮映画の正典(カノン)では、母や娘によって得られた革命的ヒロイズムの名声は息子/兄弟に授けられる。このことをよく示すのが満州での抗日戦争Manchurian Warでの金日成のゲリラ活動を描いた伝記小説『不死の歴史』シリーズである。この小説は家/故郷での女性たちの闘いの歴史の背後に隠された〈英雄的な息子〉の失われた歴史を明るみに出す。北朝鮮の教条的な文学は南のそれとは異なりコリアンの男性性の回復を物語るのである。

 『西便制』は植民地化された民族のこの家族神話の映画的変容である。『西便制』を複雑に植民地化と分断を被った民族のアレゴリーとして読むなら、ユボン一家は結束と安定を欠いていることに気づかされるだろう。養子によって集められた家族の長として、ユボンは問題含みの家長キャラクターだ。彼は師匠の妻と通じたことで師匠の権威に挑んだ。結果として有能な歌い手たちの集団から追放された。地方を彷徨うことを余儀なくされて、陽の当たらない僻地でのドサ廻りをしながらすでに衰えた〈パンソリ〉の栄光を回復しようとしている。養子のソンファとトンホを育てるのだが、トンホもはやユボンの父親としての権威を信じてはいない。実際のところトンホはユボンがトンホの寡婦となった母親のKumsandaekと愛し合うのを目撃してから父の男性性と権威の脅威となる。トンホが夜の帳(とばり)の中で絡み合う二人から眼が離せないでいるそのシーンはじっと見つめる少年の表情にカメラが据えられたままなのだ。かつてユボンは師匠の性的なライバルとしてその父権的権威に挑んだのだが、今や皮肉なことに思春期に達した息子に挑まれているのである。

 トンホのユボンとの性的な敵対は、ソンファに酒を注げと強要しその胸に紙幣を押し込む酔った客に抵抗しなかったとして、ユボンがソンファの頬を叩くシーンでさらに明らかになる。黙って怒りを募らせたユボンが家の外に飛び出すと、恐ろしい形相で怒りを表していたトンホはソンファに近づき、彼女への父の指導があまりに暴力的なことに対して不満をぶちまける。ソンファがユボンを擁護すると、トンホは彼が実の父でないことをトンホは告げるのだった。

 このシーンの前にはトンホとソンファが大きな古木の枝に腰掛けて、『春香伝』の春香が懐妊する場面の練習をしていた。そこで二人は自分たちの性的衝動を慎重に言葉にし確かめようとするのだった。ソンファがトンホに別れを告げるのがこの木の下であり、またユボンがソンファにユボンは二度と戻らないだろうと言いながら、あの致命的な薬を飲ませるまではソンファを手元に置いておくのもこの木の下なのである。すべてを包み込むこの古木の枝、そこでは二人の若者が禁断の愛へとつながる性的衝動を分かち持ち、ソンファがその下でトンホを待つ風雨に耐えた古木の壮大さは彼女のトンホへの献身の偉大さを象徴している。けれどもユボンは養子にした二人の兄妹の愛を妨げ禁じる。有名なロングテイクシーンが(すぐこの後でユボンの平手打ちがありトンホの家出があるのだが)娘/妹をめぐっての父と子の間の葛藤を強調している。このロングテイクシーンでは三人が長く風の強い田舎道を歌い踊りながら進んでいくの。その様子が三人の関係を物語っている。二人の男性がソンファの周囲を交差しながら踊る。ユボンはトンホとソンファの間に割って入り、ソンファに対する彼の欲望の成功することが予兆として示される。間もなくトンホは家族の下を去る以外になすべきことがないことになるのだった。

  トンホが去って後、ユボンは暴力的方法を用いて父権的男性的権威を取り戻そうと決意する。そこで頼りにしたのは〈父の法〉であったが、その理解には謎めいたコムンゴのシーンが役に立つ。コムンゴはもっぱら知識人とか貴族の愛人とかが詩の朗誦の伴奏に用いる伝統的な弦楽器である。儒教の階級的規範に従うなら、農民相手に芸を披露する旅芸人であるユボンのような人物はコムンゴを弾いていた洗練された老人の同類であることは許されない。苗字すら知らされていないという事実こそユボンが低階層の人間だということを裏付ける。しかし彼が例の老人と高い文化的領域を共有していると想像すること(あるいはユボン自身が想像すること)は、ユボンと老人との間に想像上のホモソシアルな領域、さらに言えば男同士の社会の中で貴族階級の老人が示す領域を創り出す。一瞬でもこの領域に属すると考えることで、ユボンは儒教的家父長制の権威と老人の属する男だけの高い文化的特権を獲得するのだ。ユボンのこの象徴的な変容はジェンダーと階級に沿って分割されていたユボンとソンファの家族空間を再構成する。二人の関係が再構築ならびに再定義されることはエリート男性がホームレスで孤児の少女をレイプするのと同様のものとしてユボンのレイプが正当化されるのである。

 この想像上の父の権威はその権威が確実なものでないために、また彼の経歴上の違背のために民族主義アジェンダを満たすことはない。長らく行方不明だった息子の帰還は、不適格な父親ユボンの死後、生き延びるためそして自らの芸能の完成のために犠牲となった女性の長い闘いのあとなのである。実際に作品は妹を探す息子の帰還から始まるのだ。トンホの職業が治療に関わる薬草の収集であるのは興味深いことだ[8]。治療者である兄の帰還によって初めてソンファの〈パンソリ〉はその完成に域に達する。女性を生け贄にすることでの民族的な理想、恨(ハン)の昇華、そして人間的な救済という間テクスト的アマルガムがこの作品のクライマックスなのである。

 クライマックスの複雑さについて説明するために少し話を戻さねばならない。既にユボンとソンファの近親相姦的関係はこの論文の初めに指摘しておいた四つのシーンを通してなされたのだが、ソンファは盲目の父の視力を取り戻せるように娘が自らを犠牲にする少女の物語である『沈清伝』の歌い方を父に請うの。ヒロインは竜王をなだめる儀式の人身御供となるべくそれを探す商人にわが身を売る。沈清が海に沈んだ時、父親は仏陀に供物を捧げて視力を取り戻し、娘の孝行心は報われるのであった。『沈清伝』の最後で、不死の娘は父と再会するその時に父の目は回復するのである。この時点までソンファのレパートリーは『春香伝』、自分に仕えよと強要する地方執政官の脅しにも関わらず心から愛する男の戻ってくるのを待つ若い妓生(キーセン)の物語である。『沈香伝』のヒロインという新しい役柄になりきるため、ソンファはトンホへの彼女の愛を諦め、ユボンへの忠誠を誓ったかのようなのである。

 しかし作品の最後の方で、兄と妹(別の言い方をすれば幼少期の恋人たち)が再会し、トンホの太鼓の伴奏に合わせソンファは『沈香伝』を歌う。『沈香伝』を演じながらソンファとユボンはこれまで抑圧され満たされることのなかった互いの愛を、性的な関係なしでいわば音楽的に完成する。この一体化を通してソンファの恨(ハン)は昇華され人間性が救出されるのだ。そしてまたユボンの〈パンソリ〉を完成させるという民族主義的終着点に達する瞬間でもある。皮肉なことは恨(ハン)の昇華が父としての男性的権威でもってユボンが阻止した愛によって成し遂げられたことである。(初めてユボンの愛人となった時に身に着けていた同じ衣服をソンファがまとっているこのシーンは注意されてよい。)ユボンとソンファの肉体を伴わない性的な結びつきは最後には超越されるのだが、その場所は帰還した息子の真実の愛によって執り行われる。革命を成就するために戻り闘争の勝利の功績を求める北朝鮮の多くの革命の息子の物語と同じように、トンホは植民地音楽より勝る民俗音楽の優秀性を再確立しようとするソンファを寿ぐために帰還したのだ。

 『西便制』はしかしながらソンファの働きの余地はほとんど認めていない。全編を通じて彼女は犠牲者として描かれる。孤児とし、レイプの対象として、そして父の夢をかなえる娘として。彼女の性格はほとんど変化しないし、本質的に平板なのである。とはいえ、最も男性主義的なこの物語でさえ全面的に彼女を犠牲者とすることは出来ない。ソンファは黙ってユボンに従いながらトンホへの愛を守るのだ。ユボンの決して許されない暴力を受け容れることはトンホに対する彼女の愛の炎を消さないようにする沈黙の抵抗なのである。ソンファこそ途方もない犠牲を払って完成された技能を具現化し恨(ハン)を昇華する人物なのだ。とはいえ民族芸能の完成は女性の悲惨な生涯に見合うものなのだろうか?

 

 

        美学と文化ナショナリズム

 

この章では『西便制』の先駆けとなる作品『族譜』に眼を向けてみる。これら二つの作品を共に検討することは、林權澤の作品の中で、植民地主義、美学、文化ナショナリズムノスタルジア、そしてジェンダーが重なり合うその様式に光を当てる助けとなる。『族譜』は彼の業績の中で分岐点となる作品だ。それまで主にB級のアクション映画を撮っていた林權澤はこの作品を起点として朝鮮の歴史や文化そして社会に関わる様々な問題に焦点を絞った〈シリアスな作品〉を創り始めた。彼の経歴におけるこの変化は興味深いことだが、その理由を彼は、朴正煕体制下での維新映画法の改正の一環として施行された優秀映画報奨制度のおかげで行われることになったインタヴュー[9]の中で明らかにしている。映画法のこの四度目の改訂は厳しい検閲制度とクオーター制を法制化した。しかしこの政策は衰退する国内映画産業を活性化するためであったのに、生産された無数の作品とその上映日数との不均衡が国内映画を市場の周辺へと追いやる結果となった[10]。クオーター制は〈優秀作品〉を創った製作会社に海外映画の輸入と配給の特権を与える優秀映画報奨制度とセットだった。1973年に発布された映画促進法はたとえば次のような作品を〈優秀作品〉と定義している。維新憲法を擁護し、民族的アイデンティティを促進し、セマウル(新しい村)運動を推し進め、そしてハイレベルの文学的手腕を発揮したものであると[11]。同時に大統領令第18条は映画法を修正し検閲違反(その主たるものは国家ならびに体制、そして支配者への中傷)を11のカテゴリーで規定した。

これらの厳しい環境の中で、映画会社は財政的に切り抜けるには輸入映画の興行収益にもっぱら依存するしかなかった。けれどもそのためにはある一定数の国内映画を創らなければならなかった。必然的に映画監督たちは作品の予算を決定する新しく設立された政府機関である映画振興公社(MPPC)のせいで軍事政府の政策に沿ういわば共犯的な〈優秀作品〉を創る圧力を受けていた。これを避けるには低予算の商業映画を創るしかなかった。申相玉(シン・サンオク)などの黄金時代の監督は後者の道を選んだが、林權澤は前者の道を選択した。1973年に映画振興公社は後に大鐘賞Grand Bell Awardを受賞する林權澤の戦争映画『証言1973』の資金を出した。翌年また公社から資金を得て『妻たちの行進1974』を撮った。この作品は政府の主導で地方の近代化プログラムとして若干問題のあるセマウル(新しい村)運動を促進するものであった。数年後林權澤はこのプロパガンダ映画路線から撤退する。彼の新しい関心は人気小説を映画化した〈文芸映画〉と文化ナショナリズムを掻き立てる映画であった。プロパガンダ映画制作の道から彼を救ったのはそのナショナリズムに基づく美意識であった。

 『『族譜』』は日本の小説家梶山季之の短編小説を映画化したものである。この作品は貴族の一家の祖先、偶然に一家の系譜録(族譜)を眼にする薜鎮英(ソル・チニョン)のジレンマに焦点が当てられている。しかし物語の中心は薜ではなく日本の風俗画家の谷六郎である。『族譜』は日本の植民地であった時代に舞台設定されている。大日本帝国ファシズム支配が最も盛んだった1939年に、植民地政府はコリアンたちに創氏改名を強制する。(これは、あらゆる職業のコリアンを動員し大日本帝国の臣民化することを目指した標語である内鮮一体〔一つの体としての日本と朝鮮〕のスローガンの下で強要された。)作品の中で薜は日本の苗字をつけ天皇ヒロヒトへの忠誠を示せと迫る日本の植民地官僚の日増しに強まる圧力に直面している[12]。薜は官僚たちから一族を守ろうとして多額の金を日本軍に寄付していた。にもかかわらず植民地官僚は容赦なかった。とうとう若き植民地官僚である谷は薜の家に彼が名前を変えるように説得するよう派遣されるのであった。谷は朝鮮の人々の風俗や日々の生活の姿を描いている青年画家である。徴兵を逃れるためにソウルで植民地政府に仕えている。薜とその連れ合いは娘玉順(オクスン)を紹介するほどに谷を歓待した。(語り手の説明では薜が娘をその場に呼んだのは通訳のためだとするが、伝統的な朝鮮の家父長制からすればとても不自然なのだが。)玉順もまた芸術的な才能があって美術学校で谷の画家仲間の一人から教えを受けているのが判明する。

 若い二人は互いに惹かれ合うが、玉順はすでに婚約していた。薜への圧力を強めるため、植民地官僚は玉順の婚約者を政治犯として投獄した。残虐な拷問と徴兵の脅しが彼の正気を奪った。薜が抵抗を続けたので植民地当局は玉順を〈慰安婦〉という軍事性奴隷として徴用することを決めた。偶然当局のこの計画を知った谷は玉順を日本軍の食糧倉庫の事務員として勤めさせることで計画を阻止した。薜の息子Chang-wonが薜に創氏改名に従うよう説得したのは自身の仕事を失うのを恐れたからである。さらに薜の孫たちは苗字が朝鮮風のままだというので登校を禁じられる。最後には薜は一族の名前を変えるが、その直後に彼は自殺する。一族の長としての権威を植民地権力によって貶められていた彼は、同じような重圧の下にあった『西便制』のユボンが娘に怒りをぶつけたのとは対照的に自分自身に対して暴力を爆発させたのである。薜の葬儀の後で谷は自らの立場の優越性に直面し、大日本帝国の非道さと文明性の欠如を非難する言葉を吐く。谷は職場を解雇され徴兵されるのだった。『族譜』は朝鮮人と同じく日本人も大日本帝国軍国主義ファシズムの犠牲者であることをはっきりと訴えている。この作品が朴正煕の軍事独裁体制への告発と見うるかどうかは明らかではないが、少なくとも間接的な告発であることは間違いない。ともかくこの作品に大鐘賞Grand Bell Awardを与えた政権は自らへの批判を許容することはとうていなかった。

 この作品では、ちょうど谷と玉順が芸術の理解を通して精神的に結び付けられたように、美意識が朝鮮人と日本人とを感情的に結び付けている。『族譜』は実際に植民者と被植民者の両者にとって精神的な権威者であった日本の評論家柳宗悦(1868-1961)[13]の思想を活用している。柳は日本の民俗学者柳田國男(1875-1962)と美術評論の第一人者として有名な天心岡倉覚三(1862-1913)の二人と同時代人である。彼の師匠であるアーネスト・フェノロサは日本の伝統的な美術に特別なアウラを投げかけたのだが、日本の明治期にフェノロサの庇護の下で岡倉は、新しい素材と芸術様式のためにあわただしく駆逐されつつあった日本の伝統的な美術と工芸の保護運動に先鞭をつけた。岡倉同様に柳も専門として美術批評を選び、柳田と同じく日本の民芸運動の指導者となった。この保護運動は19世紀の産業化のあおりで工芸品が破壊される潮流に対する反動として起こった西欧の工芸運動をモデルとしていた。民俗学は工芸運動と二人三脚だったし、産業化の波に取り残されていたインドやアイルランドといった地域でのナショナリズムの思想にとって必須のものであった。柳はこの近代的な美学の潮流に棹差し、朝鮮の工芸品は一つの美術様式を表現しているという考えを普及させた点で功績が認められている。

 たとえ朝鮮や台湾での日本の植民地支配の片棒を担いだとしても西欧の帝国主義とは闘った汎アジア主義である岡倉覚三と違って、日本の大正期(1912-26)のデモクラシー運動の中で活動した柳は朝鮮に対する日本の植民地主義には反対した。彼は朝鮮の陶磁器や伝統工芸には深い理解を示した。1919年に発表された論文で「朝鮮の人々についての考察」で、柳は朝鮮人の惨めさ、寂しさ、そして(他の民族に対する)愛の渇望を象徴する朝鮮工芸の曲線の美こそが最も顕著な特徴であると主張し、朝鮮人に対する愛と共感を表明した。彼はまた公教育の植民地的支配がもたらした朝鮮の伝統的な美的価値観の消滅を嘆いた[14]。翌年の論文では朝鮮王宮の中心に到る南門であり、植民地政府による朝鮮人の心の中で特別な意味を持つ景福宮の光化門の破壊を惜しんだ。

 朝鮮人たちは柳を自分たちの独立の意志に共感する日本の知識人としては例外的な人物として長い間、賞賛して来た。とはいえすべての朝鮮人が同じ心情を持っているのではない。1922年の始めに若き朝鮮人哲学者Park Chong-hongが柳の朝鮮美術の理念は朝鮮を植民地と見る視点に基づいているものでしかないと激しく批判した。〈悲哀の美〉という柳の主張は、中心的な特性が身体のダイナミズムでありユーモアであるアジア大陸の美意識が朝鮮美術に及ぼした影響をちっとも理解していないと論じたのだ[15]。Parkの柳に対する批判的な評価は、Ch’oe Ha-rimが柳の論文を作品集として韓国語に訳して編んだ際に付した序文で柳を告発した1974年になって、初めて受け入れられるようになった[16]。しかし韓国政府は柳の著作を評価する多くの人々に従って1984年、彼にJeweled Crown Culture Medalを授与した。

 『族譜』は柳宗悦の美学とヒューマニズムへの賛歌である。ある意味で谷は柳をモデルとしている。というのも谷はヒューマニズムと帝国的ノスタルジアに染まった美学とを代表しているからである。谷は消滅しつつある朝鮮人の生活の美を描こうとしていた。薜の葬儀の行進も丘の女性的な曲線美つまり悲哀の曲線を背景とする必要があった。西洋式の背広を着た谷は朝鮮服の玉順に画家として朝鮮の悲哀を捉えたいと告白するが、そのシーンは古木の正面の地面からという低い視点で撮られていて、カメラは木の幹の下の方から谷の顔を見上げるように所に位置している。実際以上に高貴で偉大な谷の姿が。画面の右半分を占める堂々とした古木の瘤だらけの根っこと幹を背景に映し出される。明らかにこのショットは、近代的で、ある意味では利他的な柳/谷とその慈愛に満ちた視点からの年老いて哀しみに満ちた女性的な朝鮮のものごととの関係を精確に表している。

 ナルシスティックでノスタルジアに満ちた視線や古木によって女性的な悲哀と恨を描き出すショットの技法は、『西便制』で効果的に駆使した林權澤好みのカメラ技法の特徴そのものだ。柳同様に谷も伝統的風習を破壊する大日本帝国を非難する。柳の仕事に詳しい薜は谷の朝鮮に対する深い理解に共感しており、植民地官僚と被植民地のインテリである二人を深く結びつけるのだが、最後には谷の徴兵をもたらすのである。自殺する夜に薜は朝鮮の悲哀の美という谷の言葉を反芻する。(柳の名が作品中ではっきりと口に出されるのは実はこの時だけである。)柳のように谷も朝鮮の女性への愛を口にし、植民男性だけが被殖民女性を救い得るという公式通りに、日本の野蛮な性的欲望の餌食になることから彼女を救う。このように残酷な植民地支配から人間性を救い出すというこの映画の美学は、後の林權澤の作品に繰り返し現れる多くの問題を提起する。

 柳の朝鮮の工芸品に対する愛と苦難を被っている朝鮮人に対する思いやりは実に例外的で賞賛に値するのだが、彼は当時の知識人の言説の影響と宗主国の市民としての立場からまったく自由だったわけではない。西欧において産業化は手工芸品とその製作技術とを完全に時代遅れのものにした。工芸品は愛着と庇護の対象と化し、消滅しつつある職人たちの生活も何らかの対応が必要となって初めて、西欧でノスタルジアなるものが生まれた。1880年代になってようやく日本では産業化が始まったので、伝統的な工芸品の生産様式は柳の全生涯を通してまだあちこちに残っていた。消えてなくなりつつある朝鮮の工芸品と悲哀の美という彼の考えに関するノスタルジアは再配置されねばならなかった。消え去り行く朝鮮の美についての嘆きは、〈もののあはれ〉として人口に膾炙している日本の美意識に由来するものだろうか。美のはかなさによって高められた感性のもたらす情緒的な美。さらに彼のこの消え去り行くものへの哀悼の意は植民地的な文脈、避けがたく高揚するエスニシティという問題と切り離せない。

 世紀の変わり目の日本でのこの消え去り行くものに関する言説の興隆に留意して、村井紀は次のように論じている。この言説は植民地言説の一要素だったし、北海道や沖縄の民族的マイノリティの消滅を嘆くものとして、これら民族の完全な同化、最終的には民族的アイデンティティの消滅を先取りするものでもあったと。この意味で日本の民芸運動は最終的に根絶されるべき人々の文化を形骸化させる政府の政策に加担するものであった[17]大日本帝国における民族的マイノリティの消え去り行く工芸品に関する言説は消滅する民族マイノリティの技術への思いやりや関心の表現としてイノセントな(無邪気な/罪がない)ものではなく、このような言説の効果を先取りする決まり文句だったのだ。これは間違いなくRenato Rosaldoが帝国の侵略によって破壊された植民地の人々の消えかかる生活風習への渇望として〈植民地主義ノスタルジア〉と名づけたものの背後に存在するものだ[18]。柳の時代の民芸運動の知的状況に関わる村井の指摘からすれば、柳の理想とその受容についての林權澤の表現は、美意識の政治として再検討されるべきなのである。

 エドワード・サイードが『オリエンタリズム』の中で指摘しているように、宗主国の西欧における同様のノスタルジックな欲望や姿勢が植民地に向けられる時、被植民地の美意識なるものを構成する。オリエンタリストの美意識は植民地の文化をエクゾチックで無抵抗かつ女性的なものとして構成する。エクゾチックな〈他者〉の文化を軽視するのではなく、自己の合理的で男性的な権力という自信の込められた表現なのだから敬意を表しさえするものなのだ。愛されない人々(あたかも朝鮮人は日本人の親の愛を切望する子どもたちであるかのうように)の哀しさや寂しさを意味する曲線に籠められたものとしての柳の朝鮮の美の記述、および消えかかった朝鮮人の生活や手工芸品に対する嘆きはオリエンタリスト美学と響き合っている。『族譜』の中で柳の帝国的ノスタルジアは谷を通して強烈に喚起されるが、オリエンタリズムジェンダー・コードもまた活性化されている。女性化された風景の線型が典型的な植民的美学者としての谷の視線によって剥き出しにされる。さらには朝鮮の女性を愛し彼女を軍事性奴隷のシステムから救い出すのはヒューマニスト谷なのである。この映画は啓蒙的なヒューマニスト谷が男性的な征服者ではなく、軍国主義的な帝国日本における社会的不適格者として描かれている点では、オリエンタリスト的構造から少し逸脱しているかも知れない。彼は啓蒙された日本人として表現されてはいても、日本の文化に自信をもてないでいるのだ。

 谷とは対照的に、薜は家長失格者としてではなく裕福な威厳ある人物であり、また植民地的融合の擁護者である。彼は朝鮮の伝統的生活様式を維持しているが、近代思想の探求に専念してもいる。日本語には堪能でないものの柳宗悦の著作に精通もしている。薜のヒューマニズムは自殺前に孫たちに別れのキスを請う感動的な所作からも明らかであるし、厳格で傲慢なユボンなら決して認めない玉順の谷との恋愛を許容するほどに性に関しても十分にリベラルである。朝鮮服を着て西洋風の帽子を被るほどにくだけた人物なのだ。しかしこのモダンな家長も最後には植民地の朝鮮人としての無力さを痛感せざるを得ない。彼は次第に植民者谷、植民地官僚としてよりも薜の養子か娘玉順の夫として振舞う男に頼らなければならないようになる。実際、薜の家族は谷を最初は朝鮮文化愛好者として、後には娘の恋人として歓待する。薜一家と谷との関係は彼が初めて薜の家を訪れた夜の饗宴によってあらかじめ示されている。丹念に用意されたテーブルはこの若い画家を朝鮮の上流階級の食文化に招きいれようとする意図を示しているのだが、それ以上にこの正餐風景は客を未来の娘の結婚相手としてふさわしいかを見定めるための儀式のようでもある。食事中の会話は谷がどのように独身生活を送っているか、そして暗黙のうちに娘の結婚相手に適しているかというような極めて個人的な話題に終始している。しかしこの〈養子〉も最後には父親の権威を回復させることはできない。父も子も残虐なファシズムによって打ちのめされてしまうのだ。

 『族譜』は『西便制』に先行するとはいえ、林權澤の後の作品に見られる自国を称揚し海外を貶める二元的な美的構造をはるかに凌駕している。『族譜』はジェンダー化された言葉で民族美学を表現しているのだ。そのアジェンダは野蛮な権力を介してではなく、権力関係を変容させる美学的抗争を通して植民地主義者と闘い勝つことである。しかし対立する文明間にあっては、朝鮮人自身もこのオリエンタリスト的物語の共犯者である。自殺の夜、薜が柳の美学的主張を思い出す時、彼の民族意識宗主国知識人の言葉に媒介されている。このことが宗主国の美意識に由来する林權澤の美意識を垣間見させるし、『西便制』のジェンダー化された言葉で示されるオリエンタリスト的美意識の無批判な内面化を説明するだろう。

とはいえ林權澤の軽率ともいえる柳の消え行くものの言説を参照したことは、『族譜』が創られた1970年代の文化ナショナリストの言説の限界内では妥当なものだったかも知れない。それは韓国の強烈な産業化の進んだ10年間のことで、同様のことは西欧では1世紀前に起こったことだった。都会の産業化は大量の労働力を必要としたし、都会の労働者階級が朝鮮の歴史の中で初めて現れた。激しく圧縮された産業化から来る重圧を緩和するために、朴正煕体制はセマウル運動という標語の下で地方の農業分野での近代化を強行した。そのせいで地方の風景は激変した。その最も顕著な変化の1つが地方の建物の外観であった。草ぶき屋根が波型のブリキ屋根に、土壁はシンダーブロックに変わった。政府はブリキ屋根を明るい赤か緑か青にしなければならないとした。この強制された近代化は少なくとも目に入る限りでは一朝にして人びとの生活を変えた。
 この急激な変化に伴って、家/故郷への憧れの気持ちが、消え行くものや産業化前の生活様式へのノスタルジアとして、特に都会へなだれ込んだ地方出身の労働者の間で高まって行った。1970年代中頃までに韓国の都市住民はこの憧れへの反動としてノスタルジア産業の勃興を目にし始めた。草ぶき屋根にツタで装われた居酒屋が都市の真ん中に現れ始めたのだ。それらは〈民俗酒場〉と称され、地方の料理やマッコリを提供した。これは日常空間でのノスタルジア産業の一例である。政府の巨大な支援を受けている旅行産業は、性の商品化の一環としてノスタルジアの生産を大々的に行った。
 ノスタルジア産業の出現は、韓国政府の大衆文化政策と強い結びつきがあった。先に触れたように、1962年の文化保護法の発布により着手され、1960年代後半に生じた反大衆文化運動に対抗するものであった。グラムシヘゲモニー概念と商品フェティシズムの魔法のテクニックを一歩進めて、Michael Taussig は近代国家が展開させた戦略、鉄の拳をビロードの手袋で隠した支配のための魔法のテクニックを論じている[19]。 かつて大日本帝国満洲軍将校だった朴正煕の指揮する韓国の軍事政権は1961年に大成功を収めたが、彼は政治的な合法性と大衆の支持を欠いていた。朴の革命政権は酷薄な軍事ファシズムの姿勢を崩さなかったものの、新しい文化政策の施行によって、あたかも文民政権であるかのように振る舞った。大日本帝国植民地主義によって破壊された大衆文化の再活性化を約束する思いやりに満ちた政府というイメージを作り出したのだ。このヘゲモニーの戦略は文化ナショナリズムの心情に訴えることで大衆の支持を得ようとするものだった。Partha Chatterjeeが論じるところでは[20]、ちょうど被植民地のナショナリズムが帝国のナショナリズムから生じるように、大衆文化の概念は、ポストコロニアルの軍事体制に抵抗し帝国主義との闘いを継続させる方法として、かつての植民地で生まれたものだった。1970年代から80年代にかけての韓国の反帝国主義の民衆文化運動は、反ヘゲモニーな運動形態の好い見本である[21]。ゲモニー的かつ反ヘゲモニー的な民衆の構成物と大衆文化とは脱文脈化された発明品なので、恣意的なシニフィエとして活用された工芸品は商品化され易いものだ。ノスタルジア産業が栄え、すぐに主にシュミラークルの生産に依存る旅行産業と結託したのはそのためである。

ウォルター・ベンヤミンの再生産された人工物の陰影に対する洞察がここに当てはまる。再生産のテクノロジーがオリジナルに本物としてのアウラを投げかける。と同時に再生産物の大量に散種され消費されるまさにそのことによって、そのアウラの権威は浸食されるのだ。ベンヤミンは警告している、この両義性は、Leni Riefenstahlファシズムの儀式を賛美しナチスの第三共和国を礼賛する作品がそうであっように、美学という名目で危険で非倫理的や流用/横領に陥りやすい。ここは、主体的な判断ないし倫理的と政治的とを分離させるカントの崇高さが介入せねばならないところなのだ。しかし林權澤の美学と文化ナショナリズムは、民族文化のヘゲモニー的なものと反ヘゲモニー的なものとの境界を曖昧化しているし、ナショナリズムという名目で大衆文化の工芸品を見境なく横領している。
 『族譜』と『西便制』は植民地支配下での男性性の喪失を物語る。民族の威厳を取り戻し男性性を回復する闘いの只中で、暴力に訴える男性の物語を語る。薜は自殺というわが身への攻撃により家長としての名誉を守り、ユボンは再生の機会と女性の権威を犠牲にした。自己に課した暴力というこの映画の言説にあっては、話は常に帝国主義ノスタルジアとミソジニスト的ナショナリズムといった自己本位の主張へと滑り落ちて行く。これらの男性主義的な語りはそれ自身では抵抗や介入の望みのまったくない自己決定的な認識論的暴力へと至るしかない。男性性の救済という見通しのない強迫観念は女性の主体を拒否するばかりか、ネーションないしポストネーションの新しい道を開くかも知れない間隙を創造する可能性を閉ざすものである。植民地化された男性性の復活への道は癒しの小道ではなく悲劇的な(自己)破壊のハイウェイなのである。

 

 

[1] Victor Thrnerはこの術後を彼の『象徴と社会Dramas,Fields, and Metaphors(

Ithaca: Cornell University Press,1974)』で練り上げている。コミュニタスは構造化されない心情を表し、儀式の境界閾で出現し、そこでは役割の逆転が平準化や卑下の効果を生み出す。

[2] 新派という演劇(新劇)は世紀の変わり目に日本で生まれた新しい演劇様式である。西欧の演劇と日本の様式(主に歌舞伎)との混合なのだ。その最も顕著な特性は感情の誇張された表現である。日本の映画への新派の影響に関する議論については、小松弘の『第一次世界大戦前の日本映画の特徴 Some Characteristics of Japanese Cinema before World WarⅠ』in “日本映画の再構築Reframing Japanese Cinema”, ed. Arthur Nelletti, Jr.h, and David Desser (Bloomington; Indiana University, 1992), p229-58.

[3] Ch’oe Won-sik “銀世界の研究A Study of unsegye(uの上にⅴ)” 『創作と批評』p48(夏季号、1978)。

[4] Marshall Berman “硬きものすべてが霧散するAll That Is Solid into Air: The Expression of Modernity”(New York: Simon and Schuster, 1982).

[5] John Frow, ” 観光産業とノスタルジア記号学Tourism and the Semiotics of Nostalgia,October 57(Summer, 1991): p123-51.

[6] 私の論文、”コリアにおけるナショナリズムジェンダー構築Nationalism and Construction of Gender in Korea,” in “物騒な女性たちDangerous Women”: Gender and Korean Nationalism, ed. Elaine H Kim and Chungmoo Choi(New York: Routledge, 1998) p9-31.を参照せよ。

[7] 詳しくは以下の拙論を参照されたい。”ポストコロニアル期の韓国の近代化における魔力と暴力 The Magic and Violence of Modernization in Post-Colonial Korea” in “ポストコロニアル期のコリアンシネマの名作Post-Colonial Classics of Korean Cinema,” ed. Chungmoo Choi( Irvine Korean Film Festival Committee, University of California, 1998) p5-12.

[8] この点はSoyoung Kimの優れた洞察に負っている。

[9]林權澤編集『『西便制』 映画物語』(Seoul:Hanul,1993)

[10] Lee  Young-il “ コリアン映画史The History of Korean Cinema”(Seoul: Motion Picture Promotion Corporation,1988) p184.

[11].Kim Hong-dong,” 映画促進法と映画促進政策の歴史The History of the Motion Picture Law and motion picture policies” in “韓国の映画促進政策とその展望The History of Korean motion picture policies and the perspectives of the future” (Seoul: Chimmundang, 1995), p154-155.

[12] 創始改名は1939年の広範に公布さ、1940年の2月11日には強制されることになったのだが、前年には太平洋戦争が勃発しており、84%以上の朝鮮人が創始改名に従った。詳しくはCarter J. Eckert et al. “朝鮮人、その今と昔Korean old and New: A History”(Seoul: Iljogak,1990, p314-20. 薜鎮英は現実的な人物であり、創始改名に抗ったことで知られていた。薜は水原ではなく全羅北道北部の高敞(コチャン)に住んでいた。孫たちを追放するという学校からの脅迫を受けて、薜は井戸に飛び込んで自殺を図った。Kim Tong-ho, “大日本帝国の植民地支配下における苗字の改変The Surname Change under Japanese colonial rule” in “親日派 The Collaborators” ed. Kim Sam-ung et al. (Seoul: Hangminsa, 1990) p301.

[13] 日本では柳宗悦(そうえつ)として知られているが、韓国では柳宗悦(むねよし)という名がよく用いられている。名前としての漢字の読みでは「むねよし」の方が妥当なのだが、この論文では日本式の「そうえつ」に従う。

[14] 柳宗悦「朝鮮の人々についての考察 Thinking about the Korean people」in “ Thinking about the Korean People” , ed. And trans. Sim U-song(oの上にⅴ)(Seoul: Hakkojae, 1996),14-24.

[15] Hoe Yeong-seop“朝鮮総督府 Korean colonial government” (Seoul: Hanul,1996), p296-97.

[16] Ch’oe Ha-rim, “序文: 柳宗悦の朝鮮美術に対する見解について Introduction: on Yanagi Soetsu’s view of Korean art), in Yanagi Soetsu , “朝鮮とその芸術Korea and its art”, trans. Yi Tae-weon(Seoul: 1974), 79-87.

[17] 村井紀, “ネーションとナラティヴ Nation and Narrative: The Narratives of the Empire and the Narratives of the ‘Disappearing’”, (paper presented at the annual meeting of the Association for Asian Studies, Honolulu, Hawaii, April 1996).

[18] Renato Rosaldo, “帝国のノスタルジアImperialist Nostalgia”, in “文化と真理Culture and Truth” (Boston Press, 1980), p217-74.

[19] Michael Taussing, “魔術:国家フェティシズムMaleficium: State Fetishism”, in “文化言説としてのフェティシズムFetishism as Cultural Discourse”, ed. Emily Apter and William Pietz (Ithaca: Cornell University Press,1993),p217-74.

[20] Partha Chattrejee, “ナショナリストの思想と植民地世界Nationalist Thought and the Colonial World: A Derivative Discourse”,(Minneapolis: University of Minnesota Press, 1986).

[21]